【新】『東大阪むかしむかし』
第五章 楠流忍道太平記

「織田信長による石山本願寺攻めがはじまったんや。
浄土真宗の多い河内一円は戦場となった。玉串の村尾家は蓮如上人の片腕とまでいわれた明道上人を出したほど、玉串の村人は本願寺でも頭分や!50人もの村人が参戦して顕如上人から感謝状をいただいたんや。
伊勢楠家の楠正具(まさとも)も本願寺に軍師として入城、正成公伝来の楠流忍術で信長を翻弄した。わしと息子・正辰も信長軍内部から正具に情報を送っていたのや。
なんでやて?表向きとは違うて信長はゆくゆく皇室にとって代わろうと考えていたんや。楠家は勤王の家じゃ、信長の勢力を弱めればならぬ。
10年にもわたる大戦さで正具は戦死したが、信長もその後家来に討たれたのや。明智光秀の寝所にも当麻草の匂いが漂うていたそうや(笑)」
―とそこまで話してくれたとき、親父の正辰が血相変えて走り込んできた。
なんと!正親町天皇の東宮・誠仁親王(さねひとしんのう)がおかくれになったと、暗殺されたのやも・・・ついに太閤も皇位を狙ってきたようだ。
太閤の野望は何としても阻止せねばならぬ。おれと親父はその夜、大坂城に潜入した。
おれの初仕事、初陣だ。今まで鍛えてきた楠流忍道の腕試しだ!
その夜、秀吉の夢枕にはふたりの童子が立って、皇位簒奪をあきらめ皇室を敬わなければ子が出来ないぞ!と言って脅したそうや(笑)。
寝所に当麻草の匂いが漂っていたのはもちろんのことや。
しかし子が出来るてわかるのか?て・・・それはやな、秀吉の側室・茶々にはしっかりと大野修理と言う間男がいたんやで(笑)。
そして幾年かすぎた。爺も親父もこの世を去った。楠の家はおれが継いだ。
慶長20(1615)年、大坂夏の陣が起こり、河内平野は戦火に覆われた。
焼け落ちた村のあとに慰霊のため植えられた菊畑の中で戦災孤児を拾った。
長曾我部家の遺児だという孤児・忠弥を連れて、おれは玉串の里をあとに江戸へ出ることにした。
楠流軍学指南・楠不伝と名乗り、軍学道場を開いた。
張孔堂と名付けた道場はおかげで大繁盛、紀州徳川家にも御贔屓にあずかり、あとを託す門弟も出来た。
その門弟の名は由比弥五郎、おれはその者に号を付けてやった、由比正雪と。
・・・甚四郎こと楠不伝はそののちまもなく亡くなった。
没年は伝わっていない、おそらく50代半ばであっただろう。
跡を継いだ由比正雪は、丸橋忠弥とともに徳川幕府に対して謀反をたくらみ失敗、自害した。
慶安4(1651)年のことだ。
謀反の理由は幕府の浪人対策にたいする不満だとも、幕府を倒し王政復古を企んでいたとも伝えられている。
この事件は後世、「慶安太平記」と題して幾度も講談や小説、映画、テレビドラマ化された。
楠一族の苦闘の280年はここに終わるが・・・
楠流忍術、いや忍道はその後も紀州徳川家に伝えられ、紀州藩士・名取三十郎により「正忍記」という秘伝書にまとめられ、現在に伝わっている。
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