【新】『東大阪むかしむかし』
大塩平八郎を捕縛せよ(後編)

平八郎の挙兵には河内の農民も多く参加した。
なかでも衣摺村からは元庄屋の杉山三平や庄屋の弟・白井孝右衛門や甥の市太郎らが加わり大塩一党の中核となっていた。
衣摺村は富農3軒に対し貧農らは49軒と生活困窮者で溢れていた、平八郎の世直しに賛同する所以であったのだ。
彼らは平八郎に従い八軒家から舟で逃亡するも下寺町まで来たとき、平八郎から「そなたたちは百姓であるからどのようにでも身をかくして命を保つよう」と諭されて、大蓮村の大蓮寺の知足庵正方のもとに逃げ込んだ。
湯漬けをふるまわれ身なりを整えて伏見へと逃亡するも、豊後橋で捕らえられて、三平、孝右衛門らは刑死、匿った大蓮村の知足庵正方は牢死した。
衣摺村にはこういう言い伝えが残されている・・・
「市太郎の死刑のとき衣摺村からも多勢見に行ったそうや。あんな若い男前がなんで殺されないかんのやと泣いて帰ってきたそうや」とか「杉山三平さんの命日は、ようよう拝まないかん」とか、また・・・「座敷の床の間あけると奥へ抜ける小部屋があってやな屋外に出れんねや、門のくぐり戸が狭いんはやな一度に大勢の人が入れんようにしたるんや」と、旧家のなかには、「大塩さんが隠れていた」という隠し部屋も残されていたそうだ。
2月29日の夜半から大風雨になった、志紀まで来ると鬱々としていた門弟の一人が突然腹を切って果て、恩智ではまた一人縊れて死んだ。
大塩父子はなんとか大和にまで逃れ、頭を剃り僧形になって大阪市中に舞い戻るも、潜伏先で密告され捕り方に包囲され、もはやここまでと火を放って自決した。
平八郎・格之助とも焼けただれ顔の判別もできないほどだったという。
大塩平八郎の挙兵は半日余りで鎮圧されたが、かりにも町奉行所の役人であったものが反乱を起こしたことは世間に大きな衝撃を与えた。
平八郎の檄文は次から次へと写し回され、生田万の乱をはじめ全国で大塩残党と称して反乱が頻発した、この事件から時代は幕末~明治へと急展開をはじめるのである。
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大塩平八郎を捕縛せよ
大塩平八郎を捕縛せよ(後編)

大塩平八郎を捕縛せよ
大塩平八郎を捕縛せよ 前編

線路はつづくよ人も来た
線路はつづくよ人も来た(後編)