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【新】『東大阪むかしむかし』

楠流忍道太平記

第四章  楠流忍道太平記

虚無僧開祖

 

「楠正儀さまが去ったあと劣勢の南朝を背負って立ったのが正儀さまの嫡男・楠正勝さまじゃ。

したたかな父上とは違うて血の気の多い直情な気性で、足利義満を和泉の平尾で奇襲をかけたもの逆襲に会い本拠地の千早城も攻め落とされてしもうた。正勝さまは捲土重来を図り大和の十津川まで逃げ込んだのじゃ。」

 

―正儀さまはその後どうなったのや?

「北朝に帰順された正儀さまは足利義満の腹心・細川頼之の引き立てで幕府内で重用され南北融和のために奔走されていたんや。そのうち南朝内で正勝さまの敗戦などで主戦派の後退があり南北融和の機運が満ちてきたのと、細川頼之の失脚もあり再び南朝に帰参されたんや。帰参後まもなくして正儀さまは59歳でお亡くなりになられたんやけど、4年ののち明徳3(1392)年についに正儀さま悲願であった南北朝合一が成ったんや。」

 

―でも北朝の後小松天皇は南北両皇室が交互に皇位に就くという約束を守れへんかったんやろ。

「せやねん、これに憤った正勝さまは南朝の皇子さまを奉じて、吉野に後南朝を興されたんじゃ。北朝側はついに楠の家を朝敵と決めつけた。ここから楠家の苦難の歴史じゃ。正勝さまは虚無と名乗られ自ら虚無僧となり諸国を行脚、足利幕府に抵抗活動をはじめられた。虚無僧はそれまでは薦僧と書きボロボロと呼ばれた乞食同然の風体やったんやけど正勝さまが今のカッコいい装束に改められ、号を取って虚無僧と呼ばれるようになったんや。」

 

―まさに七方出やな、ここから楠家の心に刃の耐え忍ぶ忍道の道がはじまったんやな。

「正勝さまは、足利義満に謀反を起こした大内義弘に合力し堺で戦死された、応永7(1400)年のことじゃ。その亡骸は正勝さま嫡男の正顕(まさあき)さまにより十津川に弔われたのじゃ。正顕さまはその後伊勢に走り北畠家に仕え伊勢楠家を興されたのじゃ。」

河内は楠のくに

「正儀さまにの御子、つまり正勝さまの御兄弟には、正勝さまにつづき正元さま、正平さま、正信さまに、わが直系の祖・正秀さまがおられた。正元さまは足利義満暗殺に失敗して処刑され、正平さまは父祖の地・玉串に土着、村尾の姓を名乗ったのじゃ。」

 

―へぇ、すると津原神社の南の稲荷のある屋敷の村尾家はわが家の親戚なのか・・・

「せや、村尾新兵衛は楠の血筋や。村尾屋敷には楠家の紋・菊水の旗や非理法権天の旗が伝わってんねんで。正信さまは津田家に入られ娘を後小松天皇に入内させたんや、そしてお生まれになったのが一休さまじゃ。」

 

―一休て、あのとんち一休さん!?

「せや、一休さまは楠正成公の孫の孫じゃ。母親は北朝に間諜として送り込まれたんやが正体がばれお子ともども内裏を追い出されたのや。」

 

一休さんのとんちは正成公ゆずりなんやな。

「そしてさいごは末弟の正秀さま、長兄の正勝さまに従って応永の戦に出たのち傑堂能勝と名乗り兄のかわりに虚無僧の組織を引き継いだんじゃ。わし正虎は正秀さまから7代目の子孫に当たるのじゃよ。正儀さまの御子孫それぞれが河内の各所に土着されて足利に歯向かい続けたんや。友井の正善寺や横小路の多聞寺、五条の専宗寺、巽の定願寺などなど菊水紋を持つ楠一族開基の寺が数多くあるのはそのためじゃ。」

 

―まさに河内は楠のくにじゃな。

「そして、わしの代に、その楠のくにをゆるがる大事件が起こったのじゃ。」

※取材時点の情報です。掲載している情報が変更になっている場合がありますので、詳しくは電話等で事前にご確認ください。