【新】『東大阪むかしむかし』
第三章 楠流忍道太平記

「大和川(玉串川)が菱江と吉田に別れて流れる玉串の里は物流の要めで大きな市場が立っていた。その市場で正成公の親父・正遠様は金剛山からとれた辰砂(水銀)で大儲け、市場の代官となり水路を抑え河内一円を支配下に置いたんや。津原神社の前に大きな屋敷を構えて土倉(倉庫・金貸業)も営んでいたんやで。」
「市場には大勢の人が集まり、百姓、商人ばかりでなく出家に山伏、放下師(曲芸師)、申楽師そして虚無僧も行き来していたんや。」
―七方出(忍者の変装法)みたいや。
「変装と言うよりも、これらの職の者そのものが忍者やったんや。そして彼ら、楠忍群を上忍として束ねていたのが正成公や。親父様から引き継いだごつい財力と諜報網、これが楠正成公の強さやったんやで。」
「正成公の母上は玉串のとなり池島の豪族・橘氏の娘。ほれ、津原神社の脇に産湯の井戸っていうのがあるやろ、正成公の産湯のことや。そこで正成公はお生まれになったんや。」
―そやったんや、玉串はわが家にとってゆかりの深い土地なんや。
「正成公には三人の息子がおられた、長男の正行さま、次男の正時さま、そして三男の正儀(まさのり)さま。」
「正成公が足利尊氏と湊川で戦いお亡くなりになられたのが建武3(1336)年のこと、足利尊氏が後醍醐さまの南朝に対抗して北朝を立てた。それに憤った正行と正時さまは正平3(1348)年に四條縄手で戦死された。楠の家は残った正儀さまがお継ぎになられたんや。」
―それで京都の北朝と吉野の南朝ふたつに朝廷がわかれたんやな。
「正成公は国家の理想をも掲げておられたけど、清濁併せのむ現実主義者であられた。正行さま正時さまは御父上の理想主義を受け継いで直情的であられたけど、正儀さまは現実的なところを引き継ぎしたたかじゃった。でもそれが南朝の方々に不満で、心少し延びたる者などと陰口をたたかれていたのじゃ。」
―でも戦力でかなり劣る南朝がなぜ足利の北朝と長期間戦えたのだろう?
「それは正儀さまが父譲りの戦巧者じゃったからや。槍を歩兵の集団戦にとりいれ、槍ぶすまで名のある侍をハリネズミにしたり、籠城戦で囲んでいる敵の補給網をズタズタにしたり、不満を持つ敵将を調略して裏切らせたり、今では当たり前とされる戦略戦術をはじめて編み出されたのが楠正儀さまで、楠忍軍を十二分に使われたからや。でも南朝のわずかな戦力ではとうてい足利を倒して北朝をなくすことなぞ不可能や。四度も京都を奪還したのにもかかわらず占領しつづけることが出来ん、延々と果てしなく戦い続けることになる。南北お互いの朝廷はもとより、諸国の武士たちや下々の民百姓にとっていい事なぞ一つもない。どこかで落としどころを見つけて手打ちをしなければならなかったんじゃ。」
―そらそうやな。
「しかし南朝三代目・長慶天皇は先代・後村上天皇と違って超タカ派でバリバリの主戦論、正儀さまの南北融和策なぞもってのほかと正儀さまはつらい立場に置かれた。勤王の心はいささかも揺るがぬところじゃけど、もはや南朝のなかに居ては事態の進展はないと考え、ついに正儀さまは北朝に寝返られたのじゃ。正儀さまは北朝の内部から融和策を図ろうとされたんやけどそんなもんコチコチの南朝主戦派にはわからへん。天皇公家はもとより楠の一族内部でも非難轟々裏切り者と、正儀さま嫡男の正勝さまとも大喧嘩の末、正勝さまが父を追い出してしもうたんや。」
※取材時点の情報です。掲載している情報が変更になっている場合がありますので、詳しくは電話等で事前にご確認ください。