【新】『東大阪むかしむかし』
大塩平八郎を捕縛せよ 前編

鬼与力
天保8年(1837年)2月29日の夜、平野のある森蔭に体を寄せ合って寒さを凌いでいる四人の男がいた。
夜の明けぬ間に河内を越そうとして、疲れ果て一歩も進むことの出来なくなった大塩平八郎・格之助父子と門弟たちである。
大塩平八郎、身の丈は五尺五寸痩せぎすの凛とした美男、大坂町奉行所で鬼与力と呼ばれた男、短気で正義感が異常に強く、会食中に幕政の腐敗に激高し硬い魚の頭を噛み砕いてしまったこともあるほどだ。
平八郎、奉行所内の不正を次々に暴いていったので疎ましがられ、奉行所を辞めざるを得なくなって陽明学の私塾を開いたが、厳格な講義に門人たちは緊張のあまり平八郎の目が見られなかったという。
天保の大飢饉で深刻な米不足が起こり大坂市中はもとより河内の農村も困窮した。
平八郎は大坂町奉行所に対して救援米を提言するも拒否され、蔵書5万冊を売却して救済に当たっていた。
ところがあろうことか大坂町奉行の跡部良弼は豪商から不正に購入した米を江戸へ廻送していたのである。
平八郎の堪忍袋の緒は切れた。
家財を売却し、家族を離縁し、大砲や爆薬を買いそろえ、門弟に軍事訓練をし、河内の農民たちにも「天満で火災が発生したなら駆けつけ豪商らに天誅を加えるべし」と決起の檄文を撒いて参加を呼びかけた。
平八郎の私塾「洗心洞」には武士ばかりではなく、守口村や弓削村、般若寺村に衣摺村の元庄屋・杉山三平など農民の門弟たちも数多くいたのだ。
ところが決起直前に門弟の一人が町奉行に密告、計画が漏れたことを知った平八郎は天保8年2月19日の朝、屋敷に火を掛けついに決起した。
農民町民合わせ300人ほどの大塩一党は、救民の旗を掲げて難波橋を渡り、三井や鴻池などの豪商に大砲や火矢を放ったが、奉行所の手勢と衝突するや、たちまち蹴散らされてわずか半日で鎮圧されてしまった。
大塩平八郎・格之助父子と主だった門弟たちは再起を期して逃亡、町奉行所や大坂城代は大塩一党を捕縛すべく大掛かりな検問を行ったのである。
※取材時点の情報です。掲載している情報が変更になっている場合がありますので、詳しくは電話等で事前にご確認ください。

大塩平八郎を捕縛せよ
大塩平八郎を捕縛せよ 前編

線路はつづくよ人も来た
線路はつづくよ人も来た(後編)

線路はつづくよ人も来た
線路はつづくよ人も来た 前編