【新】『東大阪むかしむかし』
線路はつづくよ人も来た 前編

大大阪
20世紀に入ったころ、近鉄電車が走る前の東大阪はのどかな農村地帯でした。
日本は日露戦争、第一次世界大戦と激動の時代をむかえ、大阪は「東洋のマンチェスター」と呼ばれて日本を支える工業都市として急激な発展を続けていたのです。
人口およそ226万人、214万人の東京を抜いて世界第6位の大都市「大大阪」でありました。
大阪の発展は、サラリーマンや弁護士・医師・教員などの中産階級を生み出し、人々は新しいライフスタイルをもとめて都市の喧騒を離れた郊外の住宅地を望むようになりました。
増え続ける人々を受け入れるため、大阪郊外の開発が急がれたのです。
通勤客を増やすため、鉄道会社が宅地開発に乗り出しました。
まず阪神電鉄と箕面有馬電軌(阪急電鉄)が大坂神戸間の宅地開発に乗り出し、ついで東大阪においても大正3年に大阪電気軌道(現・近畿日本鉄道)が開通しました。
さっそく家が建ち並ぶかと思いきや、大軌による沿線の宅地開発はかなり遅れたものになったのです。
大阪奈良間を55分で結ぶための生駒トンネルの掘削に経営危機をまねくまでの莫大な費用が掛かり、開業直後の大軌にはとても宅地開発までの余裕がなかったのです。
それでもなんとか大正5年には、系列に東大阪土地会社をつくり、小阪に約3万坪の土地の分譲をはじめました。
しかしあとが続きません・・・大軌の方針は観光路線へと舵をきりました。
大軌沿線にはさいわい奈良生駒の有名な寺社名蹟があり、観光客を期待できて、リスクの多い沿線開発を無理にする必要はなかったのです。
沿線の観光地をどんどんPRし、橿原神宮や伊勢へ路線を延伸してゆき、それと並行して菖蒲池遊園地や生駒山上遊園地を開園して旅客を増やしてゆきました。
けれど観光客相手ということは、春秋二シーズンの遊覧客だのみということであり、昭和をむかえるころには経営の安定のために新たな指針をもとめなければならなくなってきたのです。
大軌は、ついに宅地開発に本腰を入れてのりだしました。
※取材時点の情報です。掲載している情報が変更になっている場合がありますので、詳しくは電話等で事前にご確認ください。

線路はつづくよ人も来た
線路はつづくよ人も来た 前編

仏さまはほっとけ
仏さまはほっとけ(後編)

仏さまはほっとけ
仏さまはほっとけ(前編)