【新】『東大阪むかしむかし』
第二章 楠流忍道太平記

「いまからおよそ250年前のことや、後醍醐の帝が鎌倉幕府に追われて笠置山に逃げ込んだとき、だれも味方が集まらず孤立無援じゃった。そのある夜、帝の夢にふたりの童子があらわれた。」
―お爺はこう語りだした・・・
「童子は帝の手を引いて大きな木の下に案内した、木の南には玉座がしつらえてあった・・・はっと目がさめた帝は木の南・・楠!楠という武士はおらぬか、楠を呼び出せと仰せになった。このとき召し出されたのが我が家の10代目の遠祖、楠正成公じゃ。」
―なんとよく出来たはなし、身分が低い地下の武士が帝に召し出されたなんて、本当か?
「ま、帝の寝所には催眠作用のある当麻草の燻べた匂いがしていたそうじゃ、楠の家は忍びの家やよっての (笑) 卑賎の出ともあれば何かしら工夫は要るものじゃ。」
―ご先祖様もなかなか食えないな・・・
「忍びの術は、聖徳太子から始まり源義経を経て楠正成公が大成したんや。〔楠流奪口忍の巻〕によると義経流の奇手の用兵じゃ無うて、楠流は情報を重視し兵を守り上手く攻撃をかわす遁法、奇守の法や。術というより道と呼ぶべきものや、忍道じゃな。」
―その忍道で正成公は、千早赤坂の城で幕府軍に煮えたうんこを掛けて翻弄し、元弘3(1333)年に滅亡に追い込んだんやな。
「その通り!後醍醐の帝以来、その忍道でわが家は代々の帝をお守りして来た、勤王の家じゃ。」
―ここまで聞くと、おれにも流れる忍びの血が沸々と湧き上がるのを感じる、でも忍者といえば伊賀者だろう?
「正成公は四十八人の伊賀者を部下にもっておって、十六人づつ京や鎌倉などに置き情報収集に当たらせたそうや。正成公の妹御が伊賀の服部家に嫁いでおって、そのつながりで伊賀の山伏兵法者が楠忍軍の中心となったんや。高邁な忍道も鍛え上げた体術に支えられてるのやで。」
―そうか、明日からはもっと気合入れて訓練しなければ・・・
「服部家に入った妹御の息子が観阿弥、当時は申楽(さるがく)と呼ばれていた能楽の開祖や。申楽師は旅をして土地土地の市場で芸をするわな、また土地の有力者の屋敷にも出向いて宴席にも侍ることが多いわな。」
―内輪の話が探り放題、すると申楽師も忍者?
「そうや目指す相手の懐深く入って、内情を探るんや。申楽師を束ねているのが恩智神社、恩智神社の社家は恩智左近。正成公の一の家来の恩智左近や、観世一座も楠忍軍の一角や。玉串の市場でもよう興行していたそうや。」
―玉串って、ここの玉串か?
「せや、ここや。そしてわが楠一族が興ったのもこの玉串の里や。」
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