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【新】『東大阪むかしむかし』

楠流忍道太平記

第一章  甚四郎ただいま10歳

甚四郎ただいま10歳

 

 憂鬱だ・・・朝早くから夜遅くまで来る日も来る日も修行修行修行、少しでも油断していると親父の鉄拳が飛んでくる。

 夜も明けないうちに叩き起こされ朝飯も食わずに跳躍の訓練、庭に蒔かれた麻を飛び越える。

たかが苗木と言うなかれ麻の育ちは早い、一日一寸ずつ伸びる三月もたつと十尺にもなる、こんなの跳べるか!

また、鼻の下に濡れた綿を当てて全力疾走、息が乱れて綿を落とすとたちまち親父の拳骨。

 夜は夜で叔母の旦那・山科言経がやって来て太平記の講義、もういやじゃ、忍者なぞまっぴらや。

 おれは楠甚四郎。

 親父の名は楠甚兵衛正辰、お爺の名は楠長譜(ちょうあん)正虎。

 親父は頑固で厳しいがお爺はにこやかで優しい、親父は嫌いだけどお爺は好きや。

ここは目の前に玉串川が菱江と吉田に別れて流れる玉串の里、ときは太閤様の大坂城が完成しようという天正11(1583)年、そしておれはただいま10歳!

忍びの家

 ひい爺さんのころまでは大変な貧乏で、お爺が松永弾正様に仕官が叶ったときなぞ、ひい爺さんはこれでやっと正月に紙子の小袖を着れると嬉しさのあまり歌を詠んだほどや。

 その頃は楠といえば朝敵。

なにしろ代々の帝は後醍醐の帝と対立していた北朝の血筋、南朝に仕えて尽くしていた楠一族は、まさに帝に楯突く逆賊やな。

おおっぴらに楠の姓も名乗れず、当時住んでいた在所の名を取って大饗(おおあえ)正虎と名乗っていたそうじゃ。

仕官出来たのも、我が家に伝わっていた菊水の太刀と千早陣中の連歌を盗まれたのがきっかけで、盗んだ太刀と歌をもって松永家に仕官した侍がおったんや。

松永弾正様は貧窮から身をおこして大名にまでなった出世人、家臣と言っても素性の怪しい者ばかり、そこで由緒ある家柄の者を探していたそうや。

その侍騙りがばれて弾正様に成敗された、本当の持ち主は誰や!と言うことでお爺は見いだされ仕官出来たんじゃ。

「逆賊楠?ふん、そんなもんどないしてん、れっきとした名高い名家やないか」と言うてくださり、弾正様はお爺を右筆(書記官)に取り立ててくださったんや。

もちろんお爺が世尊寺流書道皆伝で達筆やったせいでもあるけど、右筆と言えば役目柄いろいろな機密にも関わる、実は我が楠家に代々伝わる忍術で弾正様の見る目嗅ぐ鼻としてお仕えしたんや。

 弾正様はその功績を認めてくださり朝廷に取りなしてくださったおかげで、永禄2(1559)年、正親町(おおぎまち)天皇から楠家に対する朝敵赦免の綸旨が下されたんじゃ。

そのときから晴れて楠と名乗れるようになったんや。

  お爺・楠正虎は弾正様が亡くなったあと玉串の里に引きこもって隠居、親父は跡を継いで信長様、太閤秀吉様とお仕えして来たんや。

 でもおれにとってはむかしのはなし、天下統一もなっていまさら忍術でもないやろ・・・当然修行にも身が入らんわな。

 それを見たお爺はある日、おれを呼び寄せ菓子をくれ、にこやかな顔で話し始めたんや。

※取材時点の情報です。掲載している情報が変更になっている場合がありますので、詳しくは電話等で事前にご確認ください。