【新】『東大阪むかしむかし』
後編 河内鉄道みち遥か

河内鉄道は停車駅の予定地として、住道・生駒・瓢箪山・山本・恩智・柏原の6駅が予定されていた。
旧大和川の河川跡に敷設ということは玉串川沿いということ、生駒駅、瓢箪山駅は現在の近鉄の駅の位置では無いということだ。
路線を地図に落とし込んで見ると、生駒駅は川中新田あたりか?
宝山寺への参拝客に向けての命名だと思うが生駒駅と名乗るにはかなり無理があるようだ。
瓢箪山駅は、玉串川が吉田川と菱江川に分流するあたり、近鉄・河内花園駅付近に比定される。
瓢箪山稲荷神社までは2キロ以上離れている、当時有名だった瓢箪山のお稲荷さんへの参拝者を当て込んだのだろう。
河陽鉄道と同区間での申請競願となったが、結果は河陽鉄道の申請が却下された。
逓信省の見解は、富国強兵のための鉄道の国有化も視野にいれており免許の投機売買を警戒していて、競合する平行路線になるのにも難色を示していたようだ。
そうこうして、河内鉄道は明治31年7月2日にようやく本免状の申請を提出した。
ところが日清戦争後の経済恐慌のあおりを受け、いざ着工の段となると資金不足に陥ってしまったのだ。
一年以上何も進展しない状況が続いた。
当然悪い噂も流れ始める。
明治32年6月の大阪朝日新聞には、「資本金が集まらないので関西鉄道(現・JR西日本)への売却をめぐって社内が混乱している」などと、有ること無いこといい加減な記事が掲載されるようになった。
苦渋の決断に迫られて、同年6月19日には逓信省に本免状の下付を猶予してもらう願書を提出したほどだ。
結果として、そのまま工事に着工できず2年が経ち、明治34年に免許が失効、そのまま立ち消えとなった。
河内鉄道はついに「まぼろしの鉄道」と終わった。
以降、中河内地区は鉄道空白地帯となり、大阪電気軌道(現・近畿日本鉄道)が大正3年に上本町~奈良間(現・奈良線)、大正13年に上本町~八尾間(現・大阪線)を開業するまで待たなければならなかった。
そして南北を縦走して繋ぐ路線は、令和に至っても未だに開通していないのだ・・・
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