【新】『東大阪むかしむかし』
前編 河内鉄道みち遥か

明治28年11月29日夕刻、八尾の料亭・山徳に中河内地区の地主、事業家ら有力者たちが続々と集まって来た。
当時は日清戦争の好景気で、日本各地に鉄道敷設ラッシュが起こっていた。
河内地区でも「浪速鉄道」が片町~四条畷間(現・JR学研都市線)と「大阪鉄道」が湊町~奈良間(現・JR大和路線)が開通していた。
しかし中河内には南北を繋ぐ路線が無く、穀物・石材・河内木綿など中河内の産物を安定に輸送するための縦走する鉄道の必要に迫られていた。
山徳に集まったメンバーは、その鉄道の発起人たちであり、逓信省鉄道局に「会社設立并鉄道布敷願」を提出して、「河内鉄道」を設立し、委員の選出をしたのだ。
資本金は30万円、区間は浪速鉄道の住道停車場から連絡して大阪鉄道の八尾停車場まで。
物資の輸送に加え、府立第三中学校(現・八尾高校)への通学、神社仏閣名所旧跡への観光誘致で地元経済の活性化を図る計画だ。
旧大和川の河川跡を利用するため工事は比較的簡単に済む予定で、明治30年7月6日に仮免許が下された。
ところが突然、大阪鉄道が河内鉄道の計画に対して異議を申し立ててきた。
前もって計画時に大阪鉄道には了承を取り付けていたのにも関わらずだ。
大阪鉄道の言い分は、自社の天王寺から大阪へ走る路線と平行になるため旅客の取り合いになると・・・まさに言いがかり。
大阪市内を南北に走る路線が遠く離れた生駒山麓を南北に走る路線に影響を受けるわけがない。
それに加え更に、富田林から柏原間に路線を持つ「河陽鉄道」(現・近鉄南大阪線)が路線の延長と称して住道までの鉄道敷設を申請してきたのだ。
こちらの方は路線がすっかり被る、柏原から枚岡を経て住道へ東高野街道に沿って敷設する計画だ。
河内鉄道では対抗策として終着点を八尾から柏原に変更、一歩も引かぬせめぎ合いが続いた。
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