【新】『東大阪むかしむかし』
第五・最終章 狐塚

ついに大和川川違え工事がはじまりました。
毎日1万人の人が鋤鍬で土を掘り、大きな堤を作ってゆきます、人夫には日当が支払われ、皮肉にも反対派の村々からも「飯食われんかったら背に腹は代えられへんやんけ」と日当目あてに働きに来るものもいました。
3月13日、宝永と元号が改元、突然として手伝い大名の本多忠国が急死したのです。
「浅香山の狐の祟りや!」
新川の流路に当たっていた浅香山に狐塚があって取り壊すべく工事を進めていたところ、何回掘っても一向に進めず、そこへ忠国の急死、人夫たちの間で狐の祟りだと囁かれだしたのです。
工事は暗礁に乗り上げるかと思われましたが、かわって采配をとった大久保大隅守は、浅香山に稲荷を建て盛大に狐供養をおこない、狐塚を避けて掘り進めることにしたのです。
狐塚は固い岩盤地帯だったので新川は浅香山を大きく迂回して流れることになり、のちに「浅香の千両曲り」と呼ばれるようになりました。
宝永元(1704)年10月13日、ついに新川に水が通されました、当初3年と見込まれた工事はわずか8ヶ月足らずで完成したのです。
その年11月、甚兵衛は苗字帯刀を許され、川中姓から中甚兵衛と改めました。
中甚兵衛が川違えの運動をはじめてから50年もの月日が流れました、旧川沿いの村々にとって新しい大和川の完成はこの上ない喜びでありました。
新川の川底に沈んだ田畑はおよそ257ヘクタール、旧川の川床にできた田畑は1063ヘクタール、およそ5倍の新田ができ、思わく通り幕府の年貢も増え、新田に植えられた河内木綿は大坂経済を大いに活性化させることになりました。
しかし「大和川川違え」は、新川筋にとって迷惑以外のなにものでもなかったのです。
大切に育ててきた田畑が川の底に沈み、代替地は砂地で稲作には不向き、あげくに村が新川で分断され隣りへ行くのに舟に乗らなければいけないありさま・・・
「雨ふらんがな・・・」
正徳4(1714)年は梅雨にはいっても一粒の雨もふらず、なかでも川違えで水源を絶たれた西村市郎衛門の弓削村ら二十数ヵ村は、深刻な事態となりました。
西村市郎衛門は大坂町奉行所に水路の新設を何度も何度も願いでるも、奉行所からの返事は、否!の一点張り。
「もはやこうなっては自ら新川の堤を切って水を流すより他はない」。
堤切りは死罪とされる大罪、覚悟した市郎衛門は、村に累が及ばぬようだれの手も借りず、自ら新川の堤防を切り水を流したのです。
二十数ヵ村の田畑はよみがえりました、市郎衛門は捕えられ、彼の首は新川の見える高台に晒されました。
その年の盆から、新川沿いの村々では、鉦や太鼓に合わせ念仏を唱えながら輪になって踊る奇妙な盆踊りがはじまりました。
志紀地区には、昭和の初めまで「講念仏踊り」と呼ばれる、市郎衛門の霊を慰めるための盆踊りが伝わっていたそうです。
享保15(1730)年、中甚兵衛は92歳で亡くなりました。
大和川川違えという歴史的な仕事を成し遂げたのにもかかわらず、甚兵衛の死後、残されたのは莫大な借金と名誉だけでありました。
百姓は嫉妬深く、役人たちは臆病です。
その人が尽くしてくれたおかげで助かっても、その人が自分より多く儲けることは許せないのです、公共事業に携わる人には人々は完全な奉仕者であることを求めます。
甚兵衛や西村市郎衛門たち立場は違えども、それゆえ人々は彼らのことを語り継いできたのです。
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