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【新】『東大阪むかしむかし』

大和川の流れを替えろ

第四章 急転回

急転回

河村瑞賢の一件以来、推進派の村々では意気消沈、しかし甚兵衛は、「このままやったら、いずれまた大水害がおこるに違いあれへん」と、息子たちが成長したとき辛い苦しい思いをしないよう、何としても川違えをしなければと思い定めていたのです。

 

皮肉にも河村瑞賢の死後、元禄13・14年と2年連続で大洪水が起り、今米村はもとより大和川沿いの村々ではひと粒の米も作物も何一つ収穫できない状態となりました。

 

年貢が全く取れないことで、幕府は、収入80万両に対し支出は140万両という前代未聞の財政危機に陥ることになりました。

 

元禄15(1702)年、大坂代官・万年長十郎はひそかに川中甚兵衛を呼び出し、いくども会っては計画を練り、甚兵衛に評定所に計画をもって行くよう指示したのです。

 

万年長十郎頼治、甚兵衛の良き理解者であり、この人居らずば川違えは出来なかったであろうといわれた人物であります。

 

幕府では川違えに対する莫大な費用と大規模な工事の不安で踏み切れずにいたところへ、甚兵衛の計画が伝えられたのです。

 

総予算71,500両、現在の価格で約140億円。

 

うち幕府が37.500両、あとは手伝い諸藩に分担させ、新田開発を入札させることで費用を回収させるという計画であります。

 

ついに幕府は決断しました、「大和川の流れを替えろ」と。

付替

驚いた反対派の村々では激高した村人たちに押され西村市郎衛門は江戸へ直訴にむかいました。

 

しかし評定所において市郎衛門は勘定奉行・萩原重秀にきつく叱責されたのです、「川違えは決定済みだ、異議を申し立てる者は厳罰に処す。ご公儀の慈悲であるゆえ潰地の代替地を願うようにせよ。」と。

 

元禄17(1704)年2月13日、柏原の新川の分岐点に十二間の旗竿が堺の浦まで30本、だんだんと立てかけられ竿の上に金銀の扇・吹き流しが380本あまり朝日にきらめきました。

 

柏原築留から堺の海岸に至るまで全長131町(14㎞) 、川幅100間(182m)を掘りぬく大工事です。

 

幕府は責任者として大目付・大久保大隅守を差し遣わし、手伝大名として播州姫路15万石・本多忠国を指名しました。

 

万年長十郎は、甚兵衛を片時もはなさず側において仕事をてつだわせ、18歳となった甚兵衛の息子・九兵衛も父を助けて現場に立ちました。

 

ついに川違え工事がはじまったのです。

※取材時点の情報です。掲載している情報が変更になっている場合がありますので、詳しくは電話等で事前にご確認ください。