【新】『東大阪むかしむかし』
第三章 寅年大洪水

延宝2(1674)年、大きな雷が三か所に落ちて豪雨が二日間にわたって降り続きました。
大和川や淀川の堤防35ケ所が切れ、それまで誰も経験したことのないような大洪水となりました。
河内平野はすべて泥水の海、洪水で天満橋・天神橋・京橋ともに押し流され、大阪市中・河内・和泉まで水没してしまい、いにしえの河内湾のようなありさまとなりました。
大阪市中いたるところに水死体がころがり、お助け米の炊きだしで露命をつないだ百姓町人は3万6098人に至ると記録されています。
しかも、それまで10年15年に1度ぐらいの大水害が、それからは毎年のように続いたのでありました。
寅年大洪水の影響で、江戸幕府はやっと、大和川住民の訴えに耳を傾け、河内の治水について真剣に考えるようになりました。
天和3(1683)年、大老・堀田正俊は、若年寄・稲葉正休(まさやす)、旗本・彦坂重紹、伊奈半十郎、そして豪商・河村瑞賢に大和川の洪水対策の調査を命じたのです。
幕府巡検使・稲葉正休の元には、反対派代表の西村市郎衛門が「なにとぞ川違えだけはお取りやめ願いとうございます」と頻繁に嘆願にやって参ります。
稲葉正休は市郎衛門を帰したあと、「昨日は昨日で今米村の川中甚兵衛たちから川違えを願いでてきた、たしかに川違えすればずいぶん広い新田ができ年貢も多く取れるだろう」とそばにいた河村瑞賢に語りかけました。
河村瑞賢、この人物は・・・
貧農から身を起こし、明暦の大火のとき材木買占でのし上がった男で、その巨万の富で幕府に食い込んでいた大商人であります。
「手前の考えでは、新川を掘るよりも下流の川口を広く深くして川筋の葦を刈り堤のでっぱりたる所を削らば充分に水害は食い止められるように思います。川違えだと新川筋の流れは急になり舟運が得られません、物資の輸送にさわりが出ることには間違いありません」
結局、大老・堀田正俊の意向で工費の少ない河村瑞賢の案が採用されたのです、翌年より大和川の出口である淀川の改修・安治川開削の普請が実施されることになりました。
しかもこれ以降、幕府のの命により大和川川違えの嘆願は禁止されてしまったのです。
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