【新】『東大阪むかしむかし』
第二章 反対派

「なんやて! わしらの村を川に沈めようっていうんかい!!」
今米村や吉原村らの庄屋たちが、大和川の流れを替えてわしらの村のなかに新しい川を通してくれと江戸に願い出ているという、当然のことながら新しく通る川筋の村々では猛烈な反対運動がおこりました。
突き上げられているのは、惣代庄屋の西村市郎衛門、先年身罷った父のあとを継いで惣代庄屋となったものの、若輩ゆえに古株の庄屋に突き上げられ、自分には荷が勝ちすぎると思いつつも反対派の代表にまつりあげられてしまいました。
大和川川違えをめぐって河内国は、推進派の河内・若江・讃良・茨田・高安・大県・渋川郡と摂津東成郡の270ヶ村と、反対派の志紀・丹北・摂津住吉郡の32ヶ村に真っ二つに分かれて争うようになったのであります。
一方推進派では、今米村庄屋・川中九兵衛がなくなったのち、川違えの遺志は19歳になった息子・甚兵衛に引き継がれました。
川中甚兵衛は芝村・乙川三郎兵衛と吉田村・治郎兵衛とともに江戸に下り、江戸に足かけ15年にわたり川違えの訴えを繰り返しました。
その働きかけで幕府から役人が派遣されてきて大和川の検分を行ったときなど、新川筋となった村々では筵旗を担ぎ出し一揆かというほどの大騒ぎとなり、
「川違えされると新川筋になる百姓は土地を失い流浪する者が出る」
「河内国は南高北低の地形である、新川はそれに反して横川になる」
「新川を作るには地盤の堅い台地の掘削が必要、しかし岩石ゆえに莫大な費用がかかり失敗の恐れもある」と強硬に訴えました。
甚兵衛たちも、反対派の村々から多くの嫌がらせを受け、藁人形に呪いの五寸釘を打ち付けられたり、闇夜で付け狙われたりしました。
ところが推進派の村々でも一枚岩とはいかず、芝村の漁師たちなど深野池や新開池で暮らしをたてている者もおり、川違えには反対していて、芝村の庄屋・乙川三郎兵衛の心を悩ませていました。
漁師たちの連判を貰うのに焦った三郎兵衛は、つい魔が差し偽判を作って幕府に差し出してしまったのです
ことは早々に露見し、関連を疑われた甚兵衛は大坂町奉行所に捕縛されました。
驚いた三郎兵衛は罪を一心に背負い、あろうことか・・・狭山池に身を沈めたのであります。
甚兵衛の嫌疑は晴れたものの、「なんと、早まった阿呆なことをしたんや・・・」
長らく苦労を共にした盟友を失ったことは、身を切られるより辛いことであったでありましょう。
この頃より大和川は急速に天井川へと姿を変えてゆきました。
ついに延宝2(1674)年、この年の干支は寅、「寅年大洪水」と呼ばれる歴史的な大災害がおこったのです。
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