【新】『東大阪むかしむかし』
第一章 氾濫

昨日から降り続く大雨が吉田川の堤から溢れ出ようとしていました。
雨音に掻き消されそうな早鐘の音を聞きながら、今米村の男たちは、不安げな様子で堤のまわりを見回っております。
庄屋の川中九兵衛は、堤の上で念仏を口づさみながら川面から目が離せずにいました。
ひときわはげしく半鐘が鳴ったかと思うと、轟音と共に土手の堤が切れ、たちまちのうちに濁流が村に襲い掛かってきました。
村人たちは叫びながら老人や子供を背負い、女の手を引いて高台へと逃げまどいます。
夜明けを迎えるころ、さしもの大雨も小止みとなり、ほっとした九兵衛が村の方を見下ろすと、あたり一面泥の海、今米から古箕輪、菱江の方まできれいに沈んでしまい、ぽつりぽつりと藁屋根が浮かんでいるだけでした。
九兵衛のかたわらに、14・5ばかりの少年が不安げな目で水に沈んだ村の様子をじっと見ていました。
「甚兵衛、このありさまをよ~く心に刻んでおくんやぞ、この水の災いがなくならんかぎり、いつまでもいつまでも河内の百姓は人がましい暮らしが出けへんのや。」
息子、甚兵衛は九兵衛の言葉を胸に刻み込んでいたのでした。
大和川は、1638年(寛永15年)、1649年(慶安2年)、そしてこの年の1652年(承応元年)とたてつづけに氾濫し、多くの村や人や作物を呑みこみ水の底へと沈めていたのです。
水害の爪痕もなまなましいころ、今米村や吉原村など大和川沿いの村々の庄屋たちが集まり、芝村の庄屋・長曽根三郎右衛門の屋敷で寄合をもちました。
そのとき、長曽根三郎右衛門から驚くべき話が切り出されたのであります。
「大和川を川違えして、まっすぐ西へ堺の海へ流すんや。」
大和川の氾濫を収めるためには、奈良盆地からの川の流れが河内平野を曲がって北上する前に、西へ向けて絶対自然には流れない方向へ川を付け替える以外には無かったのであります。
集まった人々は驚いて、まじまじと三郎右衛門の顔を見入ったのでありました。
そのとき「そや、それしかわしらの村が救われる道はない。」
と、今米村の川中九兵衛が声を上げました。
この瞬間から河内、いや日本の歴史を変えた、「大和川川違え」の運動がはじまったのです。
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