【新】『東大阪むかしむかし』
京道、高野道、やまンねき道(前編)

「賀茂川の水、双六の賽、山法師、これぞわが心にかなわぬもの」
三つ以外は世の中全て自分の思いのままになると豪語した白河上皇が、ある日、「帝釈宮に行った夢を見た。」といい出し「天竺へお詣りにゆきたい。」とつづけました。
またか!わがまま暴君の気まぐれはいつものこと、しかし天竺ともなると大ごとです。
ここに当代随一の学者で大江匡房(まさふさ)という者がおりました。
「日の本の国においても天竺に劣らぬほどの霊地はございます。
その地とは高野山、三国無類の聖地でございます。
おりしも弘法大師の300年忌、そこへ詣られるのが良いかと存じます。」と申しました。
さて、そうなるとまわりは準備に大わらわ、まずは行く道の確認であります。
京から高野山までは、生駒西麓を集落を通さず直線になるようつくられた南海道を通るのが良かろうということに・・・
が、平安末期のこのころになりますと、朝廷の力は衰え古代の官道などは放ったらかしになっていて、たいそう荒れておりました。
ここに河内石川の人、安助上人(あんじょしょうにん)という高僧がございまして、これはいかぬと信徒たちや民衆に呼びかけました。
一里塚を設け、法華塔を建てて道を整備し直し、ここに東高野街道が開かれたのです。
高野山への参拝道路は、東高野街道以外にも中高野街道、下高野街道、西高野街道と四本の高野街道がありまして、それぞれが京都、平野、四天王寺、堺から出発して河内長野で一本の道に集まり高野山へと向かいます。
東の高野街道はなかでも京都と高野山を一直線につなぐバイパスで、その重要さはひとかたならず。
江戸時代初期、貝原益軒は、京より高野山へ行こうとしてこの道を通りました。
益軒の旅行記「南遊紀行」には、「山の根き道」と紹介されています。
「根キ」とは関西の言葉で「そば」と言う意味です。
「やまねき」とは、「やまのそば」と言う意味で、このあたり(大東~八尾の東部)の人たちはじぶんたちの住んでいる地域をこう呼んでいます。
「やまねき」は河内言葉で「やまンねき」と発音します。
そして「やまンねき道」を地元ではまた「京みち」と呼びならわしてきました。
東高野街道が、高野山から逆に歩けば京都に上る道だからです。
そしてこの道は、現在の旧国道170号線であり、今も昔も重要な幹線道路であります。
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