【新】『東大阪むかしむかし』
河内キリシタン年代記(後編)

飯盛山廃城のあと、三好義継は信長より河内半国を与えられ、家臣の池田丹後守教正も若江城の城代を任されることとなりました。
1569(永禄12)年、池田丹後は同僚の高山右近と共に信長に宣教師フロイスを謁見させ、信長からキリスト教布教の許可を得ることができました。
ところが三好義継が信長に反旗を翻したので、池田丹後は主君を見限り、若江城に信長軍を引き入れたので三好義継は割腹して果てました。
この功績により、池田丹後は1574(天正2)年、若江城の城主に任じられました。
シメアンという洗礼名を持つ池田丹後は若江城下に教会堂を建て、あくる年には教会でキリシタン聖体節を執り行い809人もの信者が参加しました。
かつての若江には「来栖」「大臼」とよばれた字があったそうで、これらは「クルス」「ダイウス=ゼウス」のことだと思われ、キリシタンで賑わった城下の名残を感じます。
そうこうするうち一向一揆の鎮圧に成功した信長は、前線基地として必要のなくなった若江城を廃し、1580(天正8)年、池田丹後をつぎに八尾城に封じました。
廃城後、フロイスは「若江の中央を通ったが、ここは今、城もなく、ただ多数の住民がいるだけだった」と書き残しています。
八尾城主となった池田丹後は宣教師に二百俵の土地を寄進し、教会堂も二か所建て、八尾は800名ものキリシタンのいる城下町となりました。
翌1581(天正9)年には、巡察使ワリニャーニを八尾城下に招いて荘厳な歓迎の宴を催しました。
池田丹後は、枝と薔薇を手に持たせた家臣たちを道に整列させ、ワリニャーニが通過するとき枝と薔薇の上を歩けるよう道に投じさせ、野に蓆を敷いて屏風を廻らし夫人や子たちと共に歓迎し饗応したといいいます。
信長亡きあとは、豊臣秀吉の命により秀吉の養子・豊臣秀次に仕え、小牧・長久手の戦いでは、巨大な金色の十字架を描いた旗を掲げて300の兵とともに群がる徳川勢を突破し武名を上げたといいいます。
ところが秀吉の時代となると、いままでのキリシタン保護政策からうって変わって、1587(天正15)年には「バテレン追放令」が出されました。
池田丹後は主君・秀次に、「某はキリシタンになって久しく、その教えの真にして善なることを知った故決してこれを捨てる事はございません、もし秀次様がこの事のために某を殺そうとすれば死ぬ覚悟です。しかしキリシタンとして仕える事を許されるなら忠実にお仕えし、もしそうでないならば許可を得て退去します」と申し入れました。
意気に打たれた秀次は「従来通り仕えその教えを堅く守れ」と励ましの言葉を与え、池田丹後は秀次に代わらぬ忠義を尽くしました。
その秀次も1595(文禄4)年には秀吉に謀反の疑いをかけられ自害させられ、池田丹後もその地位を追われ九州に追放されたといいます。
池田丹後のその後のことはいかなる記録にも残されていないそうです。
豊臣秀吉の禁教令が出るにおよんで、河内キリシタンの歴史も終わりをつげたのでした。
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