【新】『東大阪むかしむかし』
おとなの奈良街道(前編)

一生に一度はお参りしたい伊勢神宮。
伊勢参り、江戸のむかしは、大阪からは奈良まで八里八丁(約34k)の最短一直線の「暗越奈良街道」を歩いてゆきました。
奈良街道で最初で最後のただ一つの宿場が、現在の花園ラグビー場の北にあった「松原宿」。
明暦年間(17世紀半ば)に大阪町奉行・曾我丹波守が、松原・水走両村に命じて公式に置いた宿場です。
宿場というものは自然に勝手に出来たものではありません、幕府や大名が街道を通るとき馬や人足を用意させるために作らせたもので、その馬や人足はすべて地元の村々の負担なのです。
村々にとってはたまったものではありませんが、かわりに人がたくさん集まって来て、暗がり峠越えの難所を目の前にして皆ここに泊まるので宿場はたいそう繁盛したものです。
そして、人の寄る所には・・・とうぜん・・・「おとなの遊び場」も、うまれるのです。
「一杯機嫌でふらふらと格子越しに女に軽口叩く旅の者、女といえば、これは良い客、のがしはならじと手にした長いキセルの雁口を、格子の窓から旅人の袖にひっかけからませ足を止めさせ」と、このような遊郭の風景とは無縁の農村地帯・中河内で「松原宿」のみが例外でした。
L字型の町筋には、14~16軒の宿屋に、9軒の茶店があり、文政4(1821)年の記録には、その14軒の宿屋には飯盛女各2名づつがおり、9軒の茶店には茶汲女が各2名をいたそうで、それも実際のところ1戸に7、8名の女がいて、「近年松原宿には、売女風の者をおおく召し抱え、酒宴遊興鳴り物入りで渡世をしているものがあり、近在の若者この風俗になじみ農耕をおろそかにし借金をつくり、はては駆落ちしたり家に連れ込んだりする不心得者が現れております。また娘子供の中にもこの売女の風俗を見習う者もあったりして村方の風儀が乱れてきているので、松原宿にかけあっておりますがいっこう埒があきませぬ、お奉行所のほうで彼の者を呼び出し右のような渡世を差し止めさせるよう申し付け下さい」と若江など近隣の村々から大坂町奉行所に苦情の陳情が来るほどでした。
宿場には、大坂の陣で片桐且元が振り返り見つめたという「且元の見返りの松」という松の木があったそうですが、一夜をあけた旅人もこの木を見つめ女との後朝(きぬぎぬ)の別れを惜しんだことでしょう。
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