【新】『東大阪むかしむかし』
たいこ台担こか、だんじり曳こか(後編)

1850(嘉永3)年のこと、横小路村の若い者たちが、「だんじり」を一台買い求めました。
若者組で必死になって金を集め 、しかも庄屋たちには内緒で、それも祭り衣装まで一式そろえて。
「祭りにだんじり曳きたいんや!!」
このようなこと隠しておけるわけもなく、すぐに領主の耳に入り、たちまち「不届きにつきだんじり召し上げ、以後自侭すまじき事」 と、きびしいお達しが下され、村の衆70名連名で詫び状を書かされたのです。
当時の横小路村は、旗本たちの知行地で、しかも一つの村に3人もの領主がいて、3人それぞれが年貢を取るので、当然取り立ても厳しく「百姓は生かさず殺さず祝い事の時ですら酒は三献まで」と定め書きに決められているほど、ましてや祭り、ましてや 「だんじり」 など、ゆるされようはずもありません。
それなのに、となり村から「だんじりを買いたい」と話がでるや、領主たちはだんじりを売り払って代金を懐に納めてしまいました。
これで収まらぬのは若者組、血のにじむ思いで拵えた金で買うた 「だんじり」 をむざむざ取り上げられて、若い衆たちの心の奥には、めらめらと憤りが熾火のように眠っていたのでした。
またしても若者組は金を工面して、再び 「だんじり」 を買い求めました。
庄屋たちは驚いて、直ぐにだんじりを売り払うよう言いつけます。
若者組はこんどは頑として聞き入れず、若者組・庄屋たちの間でにらみ合いが続きました。
しかしもうこの時は明治維新も目の前に迫っており、もはや領主たちもだんじりごときにかかずらわっておれる状態でもなかったのです。
話し合いの結果、 「9月15日の祭りの日、一日だけ神前にて組ませる」ということで折り合いをつけました。
1日だけ曳いたら、16日には村へ納めておくことで、認められたのです。
そしてついに、9月15日の祭りの日。
氏神さまの神前には、揃いの衣装に身に包んだ若い衆たちが勢ぞろい。
美しく飾りつけた 「だんじり」 を曳きまわしている姿を、生駒の山もほほえみを浮かべて眺めていたのでした。
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