【新】『東大阪むかしむかし』
ひがしおおさか神名帳(後編)

タイムスリップしたつもりで、舟に乗って宮さんめぐりをしましょう(笑)、まずは大和川から長瀬川を下ってゆきます。
彌刀(みと)神社が見えてきましたよ、川面に面して鳥居が立っていますね、弥刀とは水戸の意味でこの付近を大水戸と呼び近江堂の字を当ます。神武天皇も舟でここを通るとき水戸の神様に挨拶をしたそうです。
つぎは波牟許曽(ハムコソ)神社、ハムは蛇、コソは杜、蛇の杜という意味です。川べりの湿地でさぞたくさん蛇が居たことでしょう。物部氏にゆかりの深い神社です。
ほら、川の中につるむ一対の島があるでしょ都留美島。都留彌(つるみ)神社が鎮座しています。雨乞いの神様で醍醐天皇から従五位上の位をもらったほど、遷座したあとは布施戎の鎮座地になっています。
鴨高田神社、鴨氏の氏神さまで、鴨氏は大和の葛城から長瀬川にわたって集落をつくっていたようです。
さぁ草香江にでてきましたよ、東へ進み楠根川へ向かいましょう。
川俣神社だ。川筋が何本にも分かれた中州で中臣氏の一族・河俣氏が草香江の漁業権を押さえて幅をきかせていました。なにせ草香江は鯉に鮒に川海老、菱にジュンサイ、蓮と川の幸・湖の幸がとれとれ捕り放題、御厨(皇室御料地)として毎日京都まで運んで納めていたほどです。
そう御厨といえば御厨天神社、じつは隣りの長田神社との間で、神名帳に記された意岐部神社がどちらの神社に当たる?と長い間もめているのです。明治になって枚岡神社の裁定で祝詞を書いた幣を村境の橋に立ててどちらに倒れるかで決めようとしたんですが・・・決まらなかったそうです・・・
楠根川を上ってゆくと、仲村神社が見えてきました。疱瘡除けに御利益があるそうで川で禊をしてお祓いをします。中臣系の神社。
石田神社、いわたと読みます。境内の北に磐船が埋まっていたそうで、ひょっとしてニギハヤヒの磐船かもしれませんね?中臣系の神社。
若江鏡神社、飢饉で作物が枯死する寸前、神社の裏から清水が湧きでて窮地を救ったそうです。
若江から玉串川へ移りましょう、川を下ってゆきますよ。
津原神社。大和川が増水して氾濫したとき、「櫛笥(くしげ)と橘を上流より流して止まった処に神を祀れば水難が止む」と神託がりました、櫛笥が流れ着いたのが玉串、祀られたのが津原神社です。中臣系の神社です。
ここから玉串川は二本にわかれ、東側に流れてゆくと、大津神社。津とは港のことで草香江の水運の拠点で中臣氏の一族・水走氏の本拠地です。
西へ流れてゆくと、栗原神社。栗原は久里波良と書いたそう、波が良い(笑)中臣氏系の神社です。
加納まで流れてきました、宇波神社。ここは草香江に張り出した土地で水運の要所、神武天皇の上陸した「白肩の津」でもあります。
あと山手に三社ありますね・・・物部氏の氏の神・石切劔箭神社、中臣(つまり藤原)氏の氏の神・枚岡神社、神武天皇ゆかりの梶無神社がありますが・・・疲れたので山登りはまた後日(笑)
ニギハヤヒから物部氏が出て草香江の周りを開拓して子孫を増やし、時代が下ると臣下だった中臣氏が藤原氏となって物部氏にとって替わって栄えます。
神社の祭神や創祀氏族をみると物部氏~藤原氏と権力の移り変わりがうかがえ、入植した渡来人たちも時に応じて力のある氏族に鞍替えしながら村を繫栄させ生活を築いてきました。
歴史学では、近現代の村落は中世にその萌芽を見出すと言われます。東大阪に住む人々は1100年前から長い年月をかけて、荒れ狂う大和川の水害にも負けず実りの大地を築き上げ、今に伝えてきたのです。
ご清聴ありがとうございました。
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