【新】『東大阪むかしむかし』
ひがしおおさか神名帳(前編)

いまよりおよそ1100年前、平安時代なかばの東大阪市は半分、水の底でした。
大和川が堺の方でなく、玉串川と長瀬川の二本に分かれて北へ流れ、大東市との境界当たりで溜まって大きな湖となっていました。
西は上町台地を挟んで大阪湾に通じ、東は生駒の麓まで、北は野崎の方まで広がっていた巨大な河内湖です。
河内湖は当時、草香江(くさかえ)と呼ばれ、
「草香江の入江にあさる葦鶴のあなたづたづし友なしにして
(訳)草香江の入江に餌をあさる葦辺の鶴のように、あゝたずたずしい(こころもとない)ことです。友がそばにいないのは」
などと、生駒を越える旅人たちから雄大な光景を詠われていました。
もちろん人は水の底には住めませんので(笑)、草香江の周りそれぞれの岸辺にさまざまな氏族が集落をつくって住んでいました。
記紀が伝えるところには、まず、高天原から物部氏の祖先・ニギハヤヒが磐船に乗って、中臣(藤原)氏の祖先・アメノコヤネを従えてやって来ました。
つづいて神武天皇がやってきて初代の天皇になり、続々と朝鮮や大陸からの渡来人も草香江を渡ってやってきました。
移住して入植した人たちは、豊かな実りを願ってそれぞれ自分たちの祖先を祀ります、つまり氏神様ですね。
氏神様は時代が下るにしたがって村の神様・産土神(うぶすながみ)に性格が変わってゆき、村には鎮守の神社がつきものとなってゆきました。
延喜式神名帳は当時の神社のリストであり、神社があるということは村があるということで神名帳は集落のリストだとも読めます、つまり1100年前の東大阪の人々の暮らしの様子がうかがえるのです。
延喜式神名帳に記載された神社を式内社(しきないしゃ)と言います。
現在の東大阪市域には、
長瀬川に沿って草香江まで 彌刀神社、波牟許曽神社、都留彌神社、鴨高田神社。
楠根川に沿って草香江まで 若江鏡神社、石田神社、仲村神社、意岐部神社、川俣神社。
玉串川に沿って草香江まで 津原神社、大津神社、栗原神社、宇波神社。
草香江の東岸・生駒の山麓に 石切劔箭神社、枚岡神社、梶無神社。
の16社がありました。
いずれも水辺に祀られた神社であり、湿地だらけの河内では陸上を移動するより水上を移動する方が便利だったと考えられ、川の流路に沿って集落が出来たと思われます。
山手の三社にしても神武天皇が航海中に梶を無くした梶無神社の逸話のように水とは切れない縁があり、草香江をとりまく神社は水神にゆかりの深い神社といえるでしょう。
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