親子で楽しむ 『東大阪むかしむかし』
その43 誰がために土地はある2019/04/09
水郷・河内の名産は?
はるか昔・・・
河内平野の真ん中は北に流れる大和川にひたされた沼沢だらけの土地であり、その行き着く果てには河内湖と呼ばれた大きな湖が広がっていました。
湿地帯だらけの足代や深江では水草が茂っていて、それで笠を編むのが盛んでありました、足代(あじろ)で編んだから網代(あじろ)笠と呼ばれ河内の名産品でありました。
河内湖では豊かな水産物に恵まれていたので、朝廷の直轄地「大江御厨」がおかれ、付近では河内蕪や河内味噌と言った名産にも恵まれていました。
その大和川、本流は長瀬川であり、現在では細~い水路となっていますが当時は川幅200m以上もある大河川。
その堤の上に「彌刀神社」がありました。
水戸に祀った彌刀神社
長瀬川は、難波と河内を結ぶ重要な交通路であったので、中世のころには近江堂に市が立っていました。
狂言「どもり」の、「一年一度立つ、河内の国で名に聞こえた近江堂で布一尺もよう売らないで、そのようなでたらめ言うな」というセリフからでもうかがえます。
近江堂も、そのころは大河にのぞむ大きな水戸、すなわち河口であったことから、大水戸(おおみと)と呼ばれ、訛って近江堂となったそうです。
その水戸の守り神として「彌刀(みと=水戸)神社」がありました。
現在の社殿が村の方(東向き)ではなく川の方(西向き)に構えられているのには、そういうわけがあるのです。
「神代の昔、天降られた神々が、河内湖から水戸に着き、水戸の神の許しを得て大和川をさかのぼり、大和へ入られた」という言い伝えがあるそうです。
「彌刀神社」の祭神は「天川田奈命」、古代豪族の「美努連(みぬのむらじ)」の祖神です。
「美努連」は、美奴・三野・美濃とも書き、三野縣主(みのあがたぬし)から出た氏族で「若江郡」に本拠を持ち、ここ彌刀から八尾の三野郷にかけて勢力を張っていました。
ひろい農地はだれのもの?
古代、農地は国のもの、農民は一人一人すべて朝廷の管理下におかれ人頭税を課せられていました。
これでは生産意欲もわかず、逃散するものも多くて田畑は荒れほうだい、税収が滞りだしたので、国は農地を開拓すれば個人の所有を認めるようになりました。
これが荘園です、そしてこれに資金力のある有力な貴族や寺社がこぞってのりだしたのです。
そして国の農民よりも荘園の農民になった方が生活がましなので、大勢がそちらへ逃げてゆきました。
古代からつづく地元の豪族たちも荘園に農地を寄進して税を逃れ、現地の監督官になる者が多くなりました。
そしてその手づるでもって都へゆき、摂関家や官吏と人脈をつなぎ、下級の役人に任じられるものが増えました。
「美努連」も遣新羅使や文章博士を筆頭に写経師にいたるまで、そうやって多くの役職を手に入れて、都での身分を利用して富を蓄え手広く農場を営んでいったのです。
かねてから河内では大和川の治水が朝廷の重要な仕事でしたが、そういった豪族に工事を請け負わせることで、その豪族たちの権益を認めるようになってきたのです。
これが、より地方豪族の力をつけることになり、朝廷はやせ細り、平安朝の貴族や寺社の世の中が生まれてきました。
若江郡の血と地の抗争
997年、藤原時代の最盛期、検非違使庁にある訴えがありました。
若江郡の住人・美努公忠らの一党が、同族の美努公胤、兼倫らを襲って殺害しようと隙をうかがっているというのです。
その裁定が下らぬうちに、公忠の騎兵15~6騎、歩兵20余人が兼倫の屋敷を襲撃し、兼倫と妻子を殺そうとしたのです、一報を聞いて驚いた若江郡使・渡辺訪らがかけつけました。
すると公忠らは、武名高い渡辺党が来たのでビビッて言い訳をして逃げ帰りました。
公忠は、以前にも手配を受けて逃亡し、山野にかくれ姿をくらませていたことがあるいわくつきの男で、今回も大和や近江あたりで前科者やならず者を語らって、徒党を組んで若江郡へと帰ってきたのです。
そして、自分の屋形の四方に矢倉を造り、城のような構えにして、数十人もの武士団を編成しました。
兼倫らは恐れ、難を逃れるために逃げる者も出て、農場の経営も危うくなってきたそうですが、事件の顛末は、史料が無いため今となってはわかりません。
このころにもなると古代にみられた同族のつながりは薄れ、各それぞれが己の利益のために争い始めていたのです。
美努公忠は、美努公胤・兼倫らのように国の下級役人の地位をえて農場を経営する土豪と違い、、ならず者を集め武力を蓄え徒党を組み、場合によっては官の捕り方を務め、また場合によっては群盗にも商売替えをする、仲間たちは恩智氏、弓削氏など他の一族のものも加え血縁をはなれた地縁的な武士団をつくっていました。
鎌倉の大武士団・三浦一族でさえ300人程度であったのに、騎兵15~6騎・歩兵20余人とは、ちいさな若江郡としてはとんでもなく強勢な勢力です。
しかしその兵は、港や市からスカウトしてきた傭兵であり、関東の純農民武者とは違って、銭金でころび利に敏い者たちで、これこそが河内武者の特色をあらわしています。
そして公忠がおそれた、渡辺訪とは渡辺党の一人であり、源氏の嫡流で関白・藤原道長の一の子分・源頼光の四天王・渡辺綱を本家とする、摂津の渡辺津を本拠地としている武士団です。
武力や摂関家の権力を背景に、朝廷の地方官の地位を得て勢力を張り「大江御厨」の利権を、枚岡の「水走氏」と二分して争っていました。
この事件から18年後、平等院の玉串荘と小野宮家の荘園との間で馬の放牧をめぐって境界争いがおこったとき、渡辺訪がその調停をしています。
馬の放牧をめぐっての争いなどとは、さながら西部劇、まさに力こそ正義の開拓時代ですね。
ひろい農地はおれのもの
鎌倉時代も末になると、より生産力が上がり1~2町規模の田をもつ農民が多くなり、余剰産物も多く、これらの土豪武士たちはより豊かになってきました。
彼らは高利貸しなどで富を蓄える者もあり、近隣の土豪と同盟を結び、たくわえた武力をもって荘園の年貢を拒否したり、他の荘園に乱入してかすめ取ったりして、徐々に鎌倉幕府の支配をゆるがせてきたのです。
そして荘園は切り崩され、土豪武士化した有力農民が中心となり、貴族や寺社を排除した農民の自治によるムラ(惣村)を作っていったのです。
おはなし ひょこタンのパパ
(その43おしまい)
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