地元暮らしをちょっぴり楽しくするようなオリジナル情報なら、東大阪の地域情報サイト「まいぷれ」!
文字サイズ文字を小さくする文字を大きくする

東大阪の地域情報サイト「まいぷれ」東大阪市

親子で楽しむ 『東大阪むかしむかし』

その58  むかし、堺県があったんや2022/08/31

永和を「ながにご」って呼んだ時代があったんや!

むかし、堺県があったんや

荒川村から永和がわかれたんや

近鉄奈良線、布施のとなりは永和駅。

いまでは、JRのおおさか東線とつながって新大阪まですぐ行けるようになったんやけど、もともとは大軌電車が大正3年に開通したときには駅はなかったんや。

そのころは、まだ一面の田んぼと畠、そんでやな、その永和の名前の由来やねんけど、こういう話が伝わってんや・・・

江戸時代もおわりのころや、このへんでは荒川村がいちばん大きな村でいばってたんや。

その荒川村から別れた枝郷~しごうと読むんやけど、村で飯食えん次三男たちがあたらしく開拓した集落のことや~に三ノ瀬、長堂、横沼の三つがあったんや。

ま、いつの時代も子方というものはつらいもんで、親分格の荒川村のいうことには逆らえん、そこで幕府に対して荒川から独立して村を興すことを再三おねがいしていたんやそうや。

明治に入っても相変わらず、30年以上ずっと揉めつづけていたんで、明治6年にやな、そのときの堺県の県令の税所篤(さいしょあつし)はんが、ついにその願いを聞き入れてくれはったんや。

三ノ瀬、長堂、横沼をまとめて一村として荒川村から独立させて、「村どうしいがみあわずに、これからは末永く平和に過ごすように」と言いはって、税所はんは新しい村に「永和」と名付けてくれはったんや。

永和と書いて「ながにご」と読むんやけど、明治22年に布施村ができたときに「えいわ」と読み方が変わったんや。

永和の村は大阪府ちごたんや

で、気ぃついたか?このときの県令はんが大阪府やなくて堺県の県令やったやろ。

せや、そのころ永和村は大阪府やのうて堺県やったんや。

その堺県やが、その範囲がえろう広うて、堺のある和泉国と河内国に大和国を含めた1区9郡もあってんで、大阪府より大きな県やったんや。

なんせ今の奈良県が奈良郡で堺県の一部やったぐらいやで。

慶応4年9月に明治に改元されたんやけど、その前の5月に大阪府が出来て、つづいて6月に堺県ができたんや。

ほんで、明治2年に河内国を併合して、明治9年には奈良県全部を組みこんでしもたんや。

この堺県、明治14年にやな、東京・京都・大阪の三府で一番小ぃそうて財政が弱かった大阪府を助けるために編入されたんやけど、大阪府に統合されるまで14年間続いたんやでぇ・・・

その堺県の2代目県令が、税所篤はんやったんや。

県令はんは薩摩隼人やったんや

「身体は五尺に足らずして精悍無比、顔面は備前焼の羅漢に類して一種異様の鬼気を帯び、いわゆる薩摩の鬢ハゲ以外その頭上に敵の散弾を受けしがため毛は薄くして生ぜず、左足の関節また弾丸のために屈伸自由ならず、体中の刀痕数箇所」といかつい豪傑やったんやそうで、明治維新のころは西郷隆盛・大久保利通と並んで薩摩の三傑といわれたほどの人物や。

大久保利通も税所はんにはひとかたならぬ信頼をおいていてやな、出来たばかりの明治新政府のために政情不安定な西日本あちこちの県令をつぎつぎ頼んではったほどや。

堺県のときには、師範学校や医学校や病院などをつぎつぎ開いたり、港湾の改修や紡績・レンガ工場の建設、博覧会の開催、浜寺公園の開場などの先進的な取り組みをしはったんで、他の県の模範とされたほどやったんや。

その税所はん、永和の件でもわかるように、なかなか義侠心のあついお方で、奈良県の大阪府からの独立運動にふかく共鳴して、奈良県の成立に深く尽力しはったんや。

なんと、奈良県がなかったんや

明治20年に、ふたたび奈良県ができたとき、税所はんは初代の奈良県知事に迎えられはったんやけど、そもそも奈良県が堺県や大阪府の一部やったことは、古くからの都をもつ奈良の人たちにとって、たいへん自尊心を傷つけられたことやったんや。

慶応4年にいったん出来た奈良県が、9年後にあろうことか山向こうの堺県に吸収されて、堺県がなくなってもそのまま大阪府に組み込まれてしまい、明治20年までの11年間、誇り高き奈良県がなかったんやでぇ・・・

奈良の人たちの苦労や並大抵のもんやなく、役所へ行くのも山越えて堺の町まで出向かなくてはならず、まして交通の発達していない当時としては泊りがけ、奈良の町はと言うと「雲井坂から手貝通りを見渡したところ、火影はただわが家の門灯だけで、そのほかはまっ暗だった」と書き残されているほど、寂れに寂れまくっていたんや。

奈良県の独立がこれほど難航したのは、維新のころ大和の諸大名が勤王か佐幕か日和見をして態度を決めなかったからやと言う人もあるほどで、たいへんな苦労をともなったんや。

ま、それはともあれ、なんとか再興をはたし、奈良県は復活したんや。

永和に奈良県、押さえつけられていた積年のうらみつらみを晴らすのに一役買ってくれたのが税所篤はん、これも何かの縁かもしれへんな。

永和駅はひとのみち駅やったんや

で、はなしはもどって永和村やけど、大正3年に大阪電軌軌道が開通したときは、田んぼの中を電車が走っているだけで、まだ永和の駅はなかったんや。

その鄙びた永和にやな、昭和3年、「ひとのみち教団」が本山をおいたんや。

「ひとのみち教団」とは、今の羽曳野にある「PL教団」のことで、昭和のはじめに大発展した100万人もの信者がいるといわれた新興宗教や。

昭和9年、「ひとのみち教団」はやな、大軌の線路沿いに一万坪の土地を買うて、鉄筋コンクリート造りの千畳敷の大広間をもつ巨大な本殿を建築したんや。

これを手始めに、寄宿舎や印刷工場や小学校などをどんどん建て、参拝する信者の数や毎日数百名を数えたというから大変なものや。

そこで大軌も、臨時駅として昭和11年、布施と小坂の間に「ひとのみち駅」を置いたんや、この駅がのちの永和駅や。

ところがその賑わいもつかのまで、昭和12年、ひとのみちの教祖が不敬罪で訴えられ検挙されて、教団も解散させられたんや。

せっかくの「ひとのみち駅」も営業休止、本殿も取り壊され、また寂れた田舎に逆戻りかとおもわれたんやけど、ここに発足したばかりの「布施市」が入ってきたんや。

荒川の布施町役場が手狭になったんで、残っていた教団の小学校の校舎を5万円で買い取り、新しい市庁舎として使い始めたんや。

昭和13年2月1日、「永和駅」と名前も変わり、ひとのみち駅も営業再開や。

そのあとはよう知っての通り、郵便局、税務署、裁判所、図書館等々、公共施設が永和駅前に集まりだし、東大阪のビジネスゾーンとして生まれ変わっていったんや。

東大阪市になってからもしばらくあった西支所は、このときの布施市役所で、ひとのみち教団の小学校やったんやでぇ。

ま、それもこれも有為曲折あっても東大阪市となったからで、もし堺県のままやったら北東堺市とかいうて、東大阪市は無かったかもしれへんでぇ・・・
 
おはなし  ひょこタンのパパ
(その58おしまい)


その59をお楽しみに!

バックナンバーはこちらから

                                 

この記事に関するキーワード

PICK UP 東大阪のお店 ~学ぶ・スクール~

  • HOS 小阪フィットネスクラブ

    HOS 小阪フィットネスクラブ

    東大阪市下小阪2-11-1

    [ フィットネスクラブ・スポーツジム ]
    小阪フィットネスクラブは天然温泉が併設した施設です

  • 大阪府立布施工科高等学校

    大阪府立布施工科高等学校

    東大阪市宝持3-7-5

    [ 高等学校 ]
    布施工科高校は、ものづくりの街、東大阪にある工科高校です。

  • 永塾

    永塾

    東大阪市永和2-2-32 TKビル2階

    [ 個別指導学習塾 ]
    新規生徒募集中! 個別指導学習塾「永塾」 河内永和駅よりすぐ。

  • ダイオン音楽教室

    ダイオン音楽教室

    東大阪市花園本町1-6-11 三鈴ビル3階

    [ 音楽教室 ]
    ピアノ・エレクトーン生徒募集中! 子供~大人まで

  • NPO東大阪青少年スポーツ育成クラブ

    NPO東大阪青少年スポーツ育成クラブ

    東大阪市日下町1-10-8

    [ スポーツ事業(コ-チング) ]
    スポーツを通じて 健全な家庭環境をつくるために活動しています。