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親子で楽しむ 『東大阪むかしむかし』

その53  くにざかい、取って取られて森河内2020/11/17

今、大河で注目の光秀とのご縁もあったんじゃ

くにざかい、取って取られて森河内

昼なお暗き河内の森

河内平野を北に流れる大和川(長瀬川)と西に下る寝屋川が合流する一面葦原の湿地帯に、島のように浮かんで見える密林に覆われた台地がありました。

付近の村人は誰云うとなく「河内の森」と言い、いつしか一帯を「森河内」と呼ぶようになりました。

昼なお暗きその森には八幡神社がまつられ、むかしの豪族が多くの従者を連れて狩りに来たと伝えられ、村人は森を恐れ子どもたちが森に近づくのを戒めたといいいます。

その森に、天正4年(1576)、織田信長の武将・明智光秀と細川藤孝がやってきました。

敵対する「石山本願寺」を攻略するため、信長から「森河内」に砦を築くよう命じられて来たのでした。

河内の森を奪い取れ!

「森河内」は、河内国が大和川(長瀬川)右岸にひろがっているのに反対の岸に孤立していて、「河内の森」の裾の集落をふたつに割るように街道が走っていました。

「剣堤」または「放出街道」と呼ばれたその道は、西が摂津国の「左専道村」、東は河内国の「森河内村」、大和川と寝屋川が交わる水運の要衝であるとともに陸路の要衝でもありました。

眼鼻の先にある上町台地に聳える「石山本願寺」にとっては、この場所をとられることはのど首を絞められるようなものなので、森河内はじめ稲田・長田・左専道など近在の村々に本願寺の教え・浄土真宗を深く浸透させ宗教的に一体化した防衛ラインを築いていました。

天下を治めるには、堺港に近く京都にもにらみの効く大坂を押さえなければなりません、信長にとっては、本願寺から大坂を奪い浄土真宗の影響を排除しなければならないのです。

このときより40年前の天文3年(1534)にも、当時の足利幕府の管領・細川晴元は、同じようなことで本願寺と争い、ここ「森河内」をめぐって激しい戦いを繰り広げたのでした。

ここは河内か摂津の国か?

一連の森河内での合戦を伝える古文書の中には、西の「左専道村」を河内と記しているものもあります。

書き間違いと言うよりも、くにざかいにある村の命運で、そのときの勢力の強弱で境界線が動き、そのころは左専道が河内国に含まれていたのやもしれません。

左専道(させんどう)、大阪市城東区で東大阪市の森河内の西となり、
ふるく菅原道真が大宰府に左遷されたときこの村で休憩したので「左遷道」と名付けられたそうで、左遷の字をいやがった村人たちが「左専道」と字を改めたそうです。

現在でも、森河内は東大阪市で左専道は大阪市、このへん一帯は大阪市城東区・鶴見区・東大阪市の三つの行政区域の入り混じった地域です。

森河内の最寄駅は東大阪市の近鉄・高井田駅ではなく大阪市の片町線の放出駅。

中古車センターのCMと難読地名で有名なこの地区の中心街です。

「放出」、「はなてん」と呼び、その名の由来は・・・

仁徳天皇の時代、大和川の氾濫を防ぐため樋をつくり水門で調節しながら水を「放」ち「出」したところから「はなちで」、訛って「はなてん」と呼ぶようになったとも、
天智天皇の時代、「牧」をおいてたくさんの馬を放牧したことから「放出」と呼んだとも、
また、熱田神宮から神剣をくすねて逃げた新羅僧がここで難破して剣を「放」り「出」したことによるとも言われています。

いずれにせよ、摂津河内のくにざかい、大阪市東大阪市の境界にあって各町のアイデンティがどの地域に入るのかが、むかしからあいまいな場所であります。

河はながれる時もまた

時代はくだり江戸時代に入っても、大和川と寝屋川が交わる森河内は、大和・八尾から木津・野崎からの舟の行き交う船着きのターミナルとしてたいへん栄えました。

ところが宝永元年(1704)、大和川の付け替えで、大和川の本流が堺の方へ流されるようになると、急速に川の水量が減少し、大きな舟など通行できなくなり森河内の村は寂れだしました。

干上がった長瀬川の川床には、新田が開かれ、開拓者の鴻池新十郎、鴻池喜七、今木屋多兵衛の三名の名を1文字ずつとって「新喜多(しぎた)」と名付けられました。

その新喜多新田に村域は二分され、単なる用水路となってしまった長瀬川の水をめぐって高井田村となんども水争いが起こるようになりました。

そのため森河内ではたくさんの水を必要としない野菜作りがさかんになり、、特に大根が有名になって天満の青物市まで小舟で売りに行きました。

天満からの帰りの舟には肥料にする肥を運ぶ風景も見られたそうです。

低湿地なので菅笠作りもさかんで、森河内でつくられたのに、「深江笠」として売られていたそうです。

取って取られて森河内

はなしはもどって、前回より2年後の天正6年(1576)11月、信長はふたたび明智光秀を森河内に送り込みます。

光秀ほどの人物に再々砦作りを命じることは、いかに森河内が重要な拠点であるのかが判ります。

のちの大阪の陣の時には、大阪城攻撃のために徳川方の本多忠朝が森河内に陣をはり、その戦のとき馬の頭がころがっていたから「馬の頭」と名付けられた村の字名があり、一丁へだてた土地は頭のない馬の胴がすてられていたので「馬の頭なし」と呼んだそうで、いかにここが激戦の地であったかがうかがえます。

11月11日、光秀は森河内に着陣しました。

部下の佐竹出羽守によって、砦の周囲には屈強な柵が何重にも巡らされ数多くの俵や楯がたて並べられ、鉄砲も十分配備されていました。

光秀は、「河内の森」の暗い細道を、奥に鎮座する八幡神社に詣でるため、数人の部下と共に上って行きます。

「森河内八幡神社」の鎮守の杜は、現在でこそその面影をうかがえないほど平坦な土地となっていますが、明治の35、6年頃までは6千坪にもおよぶうっそうたる密林に覆われた高台であったといい、明治18年の淀川大洪水においても、大阪中が水没したにもかかわらず、ぽっかり浮かんだ「河内の森」に付近の村人たちは命を救われたということです。

光秀は、八幡神社の拝殿の階に足をかけ、一歩一歩上ってゆき、そして殿社の奥へと消えてゆきました。

このときの戦勝祈願がかなったのか、4年後の天正10年(1580)、ついに石山本願寺は信長の軍門に下ったのでありました。
おはなし  ひょこタンのパパ
(その53おしまい)


その54をお楽しみに!

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