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親子で楽しむ 『東大阪むかしむかし』

その59  桃源郷は濁流に消えた2023/05/08

すごい大雨が全部ながしてしもたんや・・・

桃源郷は濁流に消えた

桃源郷

桃の節句に桃の花、ピンクに染まる桃の花、桃花の色は桜よりひときわ濃く、青空に映える桃林に流れる菱江川の川底に映し出されたピンクのグラディーションに、かなたに見える生駒の山並みは、まさに「桃源郷」とでも申しましょうか。

この季節になると稲田村には、近在はもとより大坂からも粋人墨客たちが川舟を利用してやってきて、桃の花を愛で、川岸には茶店も出るほどのにぎわいでありました。

その桃林を流れる川に浮かんだ舟の中で、ひとりの文人が詩を吟じていました。

誰 家 年 少
 野 村 西
 沙 岸 停 舟
 路 欲 迷
 十 里 桃 林
 花 未 落
 始 知 身 到
 武 陵 渓
 
「生駒山人」と名乗るその漢詩人、本名は森文雄と言い、日下きっての大庄屋・森家の出身で、41才の若さで亡くなったのですが、その力量はかの頼山陽にも比肩するといわれた人物です。

彼は当時の観光ガイドブック「河内名所図会」のために上述の詩を吟じていたのです。

稲田の桃林

享保20年(1735年刊「五畿内志」 「花の時、霞の如し」

享和元年(1801年刊「河内名所図会」 「十里の桃林、花未だ落ず」

稲田は江戸時代、「稲田桃林」と呼ばれた大きな桃林があり、たくさん桃の花が霞のごとく咲きほこっていました。

稲田のまさに7割が桃林であって、春には桃の花見で、おおぜいの遊客でにぎわったそうです。

稲田は、新開池へ流れていた菱江川の両岸に営まれた集落であり、「稲田村由来記」によれば、室町の中頃、18軒の集落があり八幡宮を勧請して氏神としたのが始まりだそうです。

その村に、「鈴木正三」を開基として、慶安元年(1648年)に長らく兵火に遭い灰燼となっていた「園通山観音禅寺」が復興されました。

鈴木正三は、徳川家康に仕えた歴戦の勇者であり、生死が隣り合わせの生活から仏道に帰依して、
四十二歳で武士を捨て出家し、在家の人々のために、「因果物語」・「二人比丘尼」などの仮名草子を執筆して分かりやすく仏教を説き、「何の事業も、みな仏行なり」と、民衆に働くことの素晴らしさを語り続けて、日本人の勤勉の精神の源流をつくった人物として、再評価されている人物です。

その観音禅寺に美濃岩村城主・丹羽式部少輔の奥方が安産祈願に訪れ男児を得たので、境内に桃の木千数百本を寄進して植樹したのが、「稲田桃林」の始まりと伝えられています。

桃太郎の桃

桃林の桃は、この村の名を取って「稲田桃」と呼ばれました。

稲田桃は、現在の桃と品種が違う日本古来の種で、果実が5㎝ばかりと小ぶりで肉の赤みが濃い、先がとんがった桃太郎の昔話に出てくる桃なのです。

古代より桃は邪気を払うという信仰があり、桃の実はお盆のお供え物として、また災厄除けのお守りとして人気がありました。

江戸時代の後期には、天満の青物市場や京都に出荷されるなど、特産物として盛んに栽培されていました

ここが桃の産地だった名残に、稲田墓地の近くに「桃の里幼稚園」があり、楠根中学の前のバス停は「桃江橋」と呼ばれています。

明治十八年淀川大洪水

明治18年(1885年)6月のこと。

上旬から降り続いた雨が、15日の夜から豪雨となり、枚方の伊加賀でついに淀川の堤防が30間(約182m)にも渡って決壊しました。

あくる日になると淀川の支流がつぎつぎと氾濫し、堤防は各所で決壊し、北河内一帯が浸水、27日の夜からふたたび雷雨が強くなり、28日は台風で大雨、29日にはさら風が強まり、7月1日はとうとう暴風雨となりました。

2日にはふたたび伊加賀の堤防が決壊し、淀川の水が南側にあふれ出し、ついに寝屋川の堤防も徳庵で決壊して、寝屋川以南にまで洪水が襲ってきました。

このとき悪いことに高潮までが加わって大阪湾の水が安治川を遡ります。

浸水地域はどんどん拡大し、浪華三大橋と呼ばれた天満橋・天神橋・難波橋に淀屋橋も流出、可動式鉄橋であった安治川橋に至っては漂流物が橋に引っ掛かって川を堰き止めたので陸軍が爆破したほどです。

現在の大阪市北区・福島区・此花区・西区・港区・東成区・生野区に東大阪市、大東市、四条畷市のおよそ450ヵ町村が水没し、大阪府全体の約20%となる72,509戸が浸水、家屋流失1,749戸、橋の流出512カ所、堤防の決壊224カ所、死者・行方不明者81名、被災者30万4,199人という甚大な被害が発生しました。

これがのちに「明治十八年淀川大洪水」と呼ばれた歴史的な大災害であります。

どれほどすごいかといえば、1600年前の河内湖がふたたび現れ出したようでありました。

若江・河内・渋川の三郡にも濁流が襲い、中河内一帯で五十余村が浸水、長田村では水かさが五尺(約1.5m)にもなったそうで、舟で額田村や新家村に避難しようも、大波で行くにも行けず、徳庵堤周辺は、さながら海のようなありさまだったそうです。

若江では、浸水のためその年の収穫は皆無となり、人口の半分が難民となり、近江堂ではあたり一面恐ろしいように水が来ていて小若江へ行くのに舟で行かなければならなかったそうです。

まぼろしの桃

稲田桃も全滅に近い状態となりました。

濁流に飲み込まれ、水に浸かったため大半が枯死、大きな打撃をうけました。

それが引き金となり、桃の栽培は急速にすたれ、ついには姿を消してしまい、稲田桃はまぼろしの桃となってしまいました。

終戦後、消えた稲田桃を探すこころみがはじまり、幸いにも農家に二株、そして先述の観音禅寺境内にも株が残っていたので、東大阪市では、これを市の天然記念物として登録し、地元ではこのまぼろしの桃を復活させる試みがはじまりました。

第二寝屋川の堤に、地域の人たちや楠根小学校の子どもたちが、平成16年に約70本移植したのを皮切りに、毎年植え増しされて現在は600本ほどに増えたそうです。

またいつか、かっての桃林のように桃の花のグラディーションが町を彩る日は遠くないのかも知れませんね。
 
おはなし  ひょこタンのパパ
(その59おしまい)


その60をお楽しみに!

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