親子で楽しむ 『東大阪むかしむかし』
その39 御一新!かわちの村は大さわぎ2018/10/25
むかーしむかし、ここらでも”ええじゃないか”で踊り狂ったんじゃ
桜田門外の変
「日かけさす田の面の氷うちとけてすきそめすなりますらをのとも」
「氷めく冬のあら田をうちつけにのどけき春にかへすけふかな」
安政7年(1860)の正月のことです。
喜里川村の庄屋・中西多豆伎(たづき)は新年を迎え、豊年をいのる鋤はじめの行事を詠みました。
いつものようなのどかな正月でありました、が・・・・・
このあと百日もたたないうちに世の中は大きくうねりをあげて変わってしまいました。
3月末、江戸城・桜田門外にて幕府の最高権力者、大老・井伊直弼が暗殺されたのです。
いままで絶対だと思われていたものが音をたてて崩れ出したのです。
幕府の直轄領や旗本領の多かった河内の村々では、いきなり緊迫した空気に包まれ、いままで無かったような前代未聞の事件が次々と起こってきたのでありました。
黒船騒ぎ
江戸時代も後期になると、武士はおしなべて困窮し借金の抵当に、領地の年貢がもってゆかれる事実上の破産状態におちいる家が多くなりました。
四條村などでは、領主・彦坂家に不幸が続き、わずか十数年の間に4代もの家督交代があったので、物入りがかさみ、その借財を領地の村々に御用金として転嫁していたのです。
十数年間に250両も出さされたうえに、黒船が来ると、またしても600両もの御用金を申し付け、取り立ての為に江戸から用人が赴任してくると、庄屋は村方との板挟みになり、村方では三度も庄屋のリコールを求めて騒動になるほどでした。
それやこれやで、世の中の人気は険悪そして剣呑になって来ていたのでした。
京の暗雲
万延元年(1860)は不作で、ある村などでは年貢を10か年の年賦にしていただきたいとの訴えが起こったほど、飢饉はこののちも、元冶元年(1864)、慶応二年(1866)、明治元年(1868)と集中して見舞ってくるのでありました。
ところが、政情の悪化は、ますます村方に御用金や夫役人足の増加を求め、過激に大きな負担になって行き、しわ寄せを食う小作人や小前百姓の人気が荒れていきました。
勤王浪士たちのテロで荒れ狂う京都を守備するため、文久2年(1862)、会津藩主・松平容保が京都守護職に任じられ、新選組を結成させました。
京都を守るためには金が要ります、そこでその賄いの知行地として喜里川村と額田村があてられました。
額田村では、慶応元年の年間の御用金賦課額が、175万両にものぼり、それも地主ばかりでなく水呑百姓にまで頭割りで課金されたほどです。
また額田村が会津藩の知行地となったことで、いままで額田村が勤めていた人馬継足・助郷の割り当てが、松原村・水走村が額田村の分まで、被らなければならなくなりました。
そして会津藩の人足が各村に割り当てられ、額田村5人・喜里川村6人にたいして、御厨村28人、加納村36人、池島村32人もの人足が費用村持ちで、京都に詰めなければならなくなったのです。
打ちこわし
慶応2年(1866)、徳川将軍・家茂は第二次の長州征伐の為、大阪城に滞在していました。
将軍がきているにもかかわらず、喰うに困った貧民たちが打ちこわしをはじめ、西宮、大阪市中、そしてたちまちのうちに河内の村々へと広がってゆきました。
ついに、百姓たちのがまんの緒が切れ、爆発したのです。
富田林村では、貧農が米屋や酒屋へ押しかけ、国分村では、数百人の百姓が取り鎮めに来た役人を竹槍で追っかけまわしました。
このときの長州征伐は、初戦から幕府軍が大敗。
大阪や大和では物資の移出を禁じたので、米の値段が高騰しました。
米はわずか2ケ月で5割も高くなり、また村々には半年の間に4回も長州行の夫役人足の徴用が行われたため、極度に困窮するようになった。
八尾、萱振、福万寺、どの村でも百姓たちが、村役や庄屋に詰めかけ押借りし、治安が極度に悪くなっていったのでした。
そして、慶応3年(1867)をむかえます。
ええじゃないか
「ええじゃないか」の狂乱が全国各地に起こりました。
「天からお札が降ってくる、これはいいことの前触れじゃ」と、群集が「ええじゃないか」と囃し言葉を連呼しながら狂ったように踊りまくったのです。
東海地方から始まった「ええじゃないか」の乱舞は10月に河内に入り11月には大阪市中に広がります。
河内では、 まず、暗越奈良街道・唯一の宿場町「松原」においてはじまりました。
10月28日に庄屋の屋敷にもお札がふり、庄屋宅でお札を玄関に祭ったところ、水走村や吉田艮(うしとら)の村からお供え物が届けられ、3日間にわたり隣村の人々がゾクゾクと押しかけてきて、庄屋宅で踊りまくったそうで・・・・夜など、人々が門の内外で押し合う始末であったそうです。
呑んで踊って、踊って呑んで、4日目までに、酒だけで4斗樽4樽にプラス1斗ばかり飲み干したそうです。
ついで五条村。
五条八幡宮を主祭していた家に11月1日午前7時ごろ、大神宮のお札が降りました。
そこで、お札を3日間まつり、酒肴を供え、庄屋のお触れで一日すべての者が仕事を休み、施しの握り飯を食いながら踊りまくったそうです。
菱江村では11月下旬、小若江村では12月18日から24日の一週間。
荒川村、長田村、稲田村、下小阪、日下、四條、岸田堂とつづき、その「ええじゃないか」にはかなり遠方の村の者もやって来て、老若男女が踊り狂ったそうです。
のぼりを持ち、三味線・笛・太鼓の鳴り物で囃し、手ぬぐい・菅笠をもち踊ったそうで、「いいじゃないか、いいじゃないかとうたい、おどる、晴れ着をきた人の山が、色とりどりの餅や、蜜柑、小袋、藁、花などでかざられた家並みを練り歩く、着物はたいてい緋縮緬、大勢の踊り手が頭上に赤い提灯をかざしてた。」と、イギリスの外交官、アーネスト・サトウは、記しています。
「ええじゃないか」の狂乱が治まったころには、徳川幕府は滅び新政府が出来ていました。
かわちの村が大さわぎしているうちに、時代は変わり日本は明治の「御一新」の世をむかえたのです。
おはなし ひょこタンのパパ
(その39おしまい)
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