親子で楽しむ 『東大阪むかしむかし』
その31 若江城、降るは涙か血の雨か2018/02/12
むかーしむかし、信長も来たお城が我が町にあったんじゃ
明応2(1493)年4月
畠山政長は河内の若江城主・畠山持国の甥でありました。
子どものいない持国に乞われて養子に入ったものの、持国の後妻に子が出来るや用済みとなり、なんやかやと辱められて放り出されたのであります。
政長は足利幕府の実力者・細川勝元に助けを乞い、その助力で持国の子・義就とその後見人のもう一人の実力者・山名宗全と闘いました。
それが都を焼け野原にし、長い戦国時代の幕開けとなった応仁の乱のはじまりです。
その政長、長年の悲願であった若江城を取り戻すべく河内へと出陣し、城を望む寺に陣を構えました。
ところがそれを察した義就方が、寺に奇襲をかけ、不意を打たれた政長は取り囲まれて逃れるすべもなくなりました。
無念!
政長は血の涙を流しつつ、腹をかき切ったものの、刀の刃が切れず、三度にわたり腹をえぐり、真一文字に切り裂くと、刀をそばにあった鉄釜に投げつけました。
刀は鉄釜を貫き、畳に突き刺さったといいます。
天正元(1573)年11月
三好義継は、織田信長に追われた義理の兄・足利義昭を居城・若江城に迎え入れました。
信長に対して一戦構える覚悟です。
しかし信長と敵対することを恐れた家臣たちは主を裏切り、攻めてきた信長勢を城に引き入れます。
義継は義兄・義昭を毛利に落とした後、妻子一族ことごとく自らの手で殺し、10日以上も戦って三好家の意地を見せたあと、大手門の櫓にのぼり、腹十文字に掻っ捌き、はらわたを掴みだして信長勢向かって投げつけたあと無念の形相で果てました。
天正5(1578)年5月
織田信長は、天王寺砦の危機を聞くや、寝間着のままわずかな供回りと共に京都を飛び出し、若江城に入りました。
天下統一を目前にひかえた信長の行く手に立ちふさがったのが、一向一揆とその総本山・石山本願寺であります。
本願寺勢の猛攻撃で、織田軍の前哨基地・天王寺砦が風前の灯だったのです。
若江城にて偵察部隊を放ち、兵の集合を待ちますが、急なことで3,000名ほどしか集まりません。
しかし天王寺砦はなにがなんでも守り抜かねばなりません。
やむなし!出陣!!
3,000名の手勢をもって15,000名もの本願寺勢に挑みかかります。
信長自ら先頭に立ち、足に銃弾を受けながらも敵を撃退しました。
天王寺砦を守り抜いた信長は、若江城へと戻り、堺の商人・天王寺屋や今井宗久らと戦勝祝賀の茶会を催したのでした。
築城
長い戦国時代にあって若江城は、いくたびか取ったり取られたり、敵味方の勝敗の要となってきました。
若江は、西に大和川本流(長瀬川)、東に玉串川、北に新開池に囲まれた小高い丘で、網の目のように流れた井路や泥田や湿原にとりまかれた天然の要害でした。
そしてその浮島のような土地には、河内街道と十三街道(俊徳道)が交差して、引き込まれた楠根川の水によって水上交通の便にめぐまれていました。
河だらけの河内の国でもって、国の真ん中にある若江は、まさに地政的な重要地点に当たっていたのです。
この若江に城が築かれたのは、南北朝時代。
永徳2年/弘和2年(1382年)に、吉野の南朝に対する足利方の防衛地点として、河内守護・畠山基国の命で築城されました。
築かれた城は、東西が約130メートル、南北が約150メートルの20,000平方メートルほど、現在の若江小学校がその本丸、発掘物から櫓には本瓦が葺かれていた本格的な城塞であったとみられます。
若江鏡神社に射す朝日をさえぎらぬようその西側に城の本丸が決められたようです。
ちなみに、四天王寺と若江鏡神社そして六万寺往生院は一直線上に結ばれます。
これは、仏教の「日想観」の教えに従ったものだと思われ、東の鳥居の上に日が昇って西の本殿の上に沈んでいくように建てられ、鏡は太陽をとらまえるという伝承から神社が祀られたもののようです。
この霊力でもって城の守り神としたのでしょう。
廃城
若江城は、畠山氏、遊佐氏、三好氏と城主がいれかわり、最終的に織田信長の手に落ち、家臣・池田教正に城を預けました。
池田教正は、シメアンという洗礼名を持つ熱心なキリシタンであり、若江城下には、教会を建てるなどしてキリシタンが多く集まったことが、宣教師フロイスの「日本史」に記されています。
かっての若江の町には「来栖」「大臼」とよばれた字があったそうで、これらは「クルス」「ダイウス=ゼウス」のことだと思われ、キリシタンで賑わった城下の名残を感じますね。
そうこうするうち信長は、石山本願寺を下し、一向一揆の鎮圧に成功しました。
長きにわたった戦国時代も終わりをむかえようとしていました。
もはや若江に城は必要なくなったのです。
天正8(1580)年、信長の命で、若江城は地上から跡形もなく消え去りました。
直後に訪れたフロイスは、「若江の中央を通ったが、ここは今、城もなく、ただ多数の住民がいるだけだった」とびっくりして書き残しています。
若江城、
その城の歴史は、まさに戦国の歴史にシンクロして、数多くの涙と血の雨を流し続けてきました。
そののち城のあとは田畑に戻り、今、そのあとには若江小学校が建てられています。
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(その31おしまい)
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