親子で楽しむ 『東大阪むかしむかし』
その23 河内のおっさんのルーツはもののべのこどもたち2017/08/20
むかーしむかし、河内には日本の歴史のはじまりがあったんじゃ
鳥見の里の物部たち
日本の国のはじまりのころのはなしや。
そのころ河内にはなぁ、おおきな湖があって、平野の大半は水の底やったんや。
ただ生駒の山ねきだけが陸地で、人が住んどって、その里を「鳥見の里(とみのさと)」、住んでいたのを「鳥見一族(とみいちぞく)」とよんでいたんや。
狩りや漁りが得意で、たくましい者たちや。
その「鳥見の里(とみのさと)」にある日、「アマテラス」さまの孫「ニギハヤヒ(饒速日)」さまがやってきたんや。
ニギハヤヒさまは、この里を「日下(ひのもと=日本)」と名付けられ、里の長「ナガスネヒコ(長髄彦)」の妹を娶られ、御子「ウマシマデノミコト(可美真手命)」さまをもうけられたんや。
ニギハヤヒさまと、そのお供の三十二人に天物部(あまつもののべ)二十五部衆の兵らと、鳥見の者たちとは、お互いに娶り娶られその末裔(こども)らは「物部(もののべ)」の者らと名乗るようになったんや。
お供の三十二人の中には後の藤原氏の祖神であられる「天児屋命(アメノコヤネノミコト)」さまもおられたんや。
ニギハヤヒさまは、のちに来られた「神武天皇」さまと力を合わせて、このヤマトの国を興されたんや。
八十物部、地に満ちる
「物部(もののべ)」の者たちは、ニギハヤヒさまから伝えられた製鉄の技術や機織りの技術、そして田圃をつくり稲を育てる技術でもって、この河内の国を開拓し、どんどん子孫を増やしていって、「八十物部(やそもののべ)」とよばれるまでになっていったんや。
物部の宗家は、ヤマト王家の軍事や祭祀をつかさどり、その勢いは並ぶものがないほどやったんや。
「物部」の「モノ」とは、「物具=兵器(モノ)」のことであり、また「霊(モノ)」でもあるんや。
強い武力で相手を打ち破り、その敵の怨みを強い呪力で鎮めるんや。
その力で天皇さまに仕えて、ヤマトの国を支えてきたんや。
ところがやな、この力に対抗するものがあらわれたんや。
「仏教」、せや「仏教」や!
新興勢力の「蘇我」の者がこれに飛びつきよったんや!
ここに日本古来の「神」を奉じる「物部」と外来の「仏」を奉じる「蘇我」のにらみ合いがはじまったんや。
守屋、衣摺の森に死す
敏達天皇の御世のことじゃ、「蘇我馬子」は、天皇に申し上げて「仏教」を広める許可を得たんや、すると疫病が流行り出して、これは異国の神を祀った祟りじゃと宗家の「物部守屋」はんが非難しはったんや。
「守屋」はんは、仏像を棄て、寺を焼き、尼僧を裸に剥いて公衆の面前で鞭打ったんや、せやよって、「蘇我馬子」との対決は避けがたいものになっていったんや。
そうこうするうち天皇が崩御されて、「炊屋姫(のち推古天皇)」を擁する「馬子」や「厩戸皇子(のち聖徳太子)」さまは、「守屋」はんが擁する「穴穂部皇子」を謀殺して、「守屋」はんの本拠地「衣摺(きずり)」に攻め込んだんや。
大和川に沈んだような河内の西部で、唯一の陸地が長瀬から衣摺のへんや、「守屋」はんはここに本拠地を置いて大きな「渋河の館」を構えていたんや。
その館のまわりに稲を積み上げて砦「稲城」をこしらえ、むかえくる蘇我軍に「守屋」はん、みずから榎の大木にのぼり、雨のように矢を射かけたんや。
時に、西暦587年、旧暦の7月。
「物部」のつわものたちの勢いはたかく、「蘇我」の兵たちは三度も押し返されて何度も崩れかけたものや。
従軍していた「厩戸皇子」さまは、こらかなわなん、負けるかもしれんて思うて、願掛けしはったんや。
白膠木(ぬりで)の木で四天王の仏像を彫り、束ねた髪の上にのせて、「今、敵に勝たせて下さるならば、必やずや仏のため、四天王寺を建てましょう」と、誓いを立てはったんや。
すると願いが届いたか、蘇我軍は勢いを盛り返し、兵の一人「迹見首赤檮(とみのおびといちい)」が「守屋」はんを矢で射、榎の大木から落としたんや。
「守屋」はんの死によって物部軍は総崩れになり、物部宗家の一族は皆殺しにされ、ここに物部の宗家は滅んでしまったんや。
「衣摺」の名はやな、衣に色を摺る人たちの村があったからとも、また、「守屋」はんの死を悲しんだ「厩戸皇子」さまが榎の大木に袖を擦り付けて涙したことから、この土地を「衣摺」と呼ぶようになったんやそうや・・・
もののべ・もものけ・もののふ
「蘇我」との戦争に敗れたあと「物部」は、没落して歴史の表舞台から消えていったんや。
奈良時代の始まりに、「石上(物部)朝臣麻呂」の名を見るのを最後に、朝廷から「物部」の名は消えてしまったんや。
けど、「物部」は滅んだわけやないでぇ。
この日本の国を開いたんは、ニギハヤヒさまと、「物部」すなわち「鳥見一族」の末裔や。
地に満ちた「八十物部」はちょっとやそっとのことでへこたれへん。
都人からは「もののべ」が「もののけ」とさげすまれるようになろうと、「もののべ」は「もののふ」の心を持ってるんや。
摂津で興った「源氏」が、「頼信」の代に南河内の古市に入植したとき、その「源氏」に仕えた河内の郎党こそ、「もののべ」のつわものどもであったのはうたがいのない事じゃ。
「もののべ」のつわものたちは、平時に鍬を振って田圃をたがやし、いざ戦となると鍬を刀に持ち替えて、大和川の氾濫のごとき怒涛の働きを見せたんや。
「河内源氏」の流れは「頼朝」の代に「鎌倉幕府」を開き、ふたたび「もののべ」のつわものたちが時代をこさえていったんや。
弓削道鏡や伊達政宗、荻生徂徠なども「もののべ」の子孫と伝わっているんやでェ。
もののべの末裔(こども)たち
せやよって河内者の血の中には「もののべ」の血が流れてるんや。
これは、かの「今東光」はんも言うてるんやでェ。
「河内平野に米を作っている男たち、あるいは刷子製造の家内工業に従っている男たち、彼らの風貌の中に物部氏の武人の面影を宿しているのはこのためである。」と・・・
けちで助べえで世話者で闘鶏と祭りと喧嘩に明け暮れた、二~三世代前の河内のおっさんたち。
その河内のおっさんのルーツこそ、「もののべ」のつわものたちのこども(末裔)であったんやでぇ。
おはなし ひょこタンのパパ
(その23おしまい)
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