親子で楽しむ 『東大阪むかしむかし』
その20 水走る、やしろの武士団2017/05/07
むかーしむかし、地元の豪族、水走氏の一族の物語があったんじゃ
春日神社の不思議
村の鎮守の神さまには、その土地その土地で「八幡さま」だの「熊野さま」だの、神さまのグループがあるようです。
東大阪の北東部で目立つのは、これ、「春日さま」。
吉田春日神社、今米春日神社、横枕春日神社、池之端春日神社、布市春日神社、荒本の春日若宮神社などなど
なぜこの地域でのみ「春日さま」がかたまっているのでしょうか?
中世のころ、生駒西麓には、「ないりその渕」と呼ばれた大きな湖が広がっていました。
河内湾の名残であり、古代から朝廷に魚鳥を貢進する皇室御領であり、「大江御厨(おおえのみくりや)」と呼ばれていました。
「御厨」の地名はここから来ているそうで・・・
湖の古地図を見ると、神社の鎮座地が河内湖の湖岸線に当たってるように思われます。
そしてこの「大江御厨」の監督を任されていたのが枚岡の豪族「水走氏」なのです。
義経と康忠
寿永三年、河内の国、有福名~ありふくのみょう~(現・水走のあたり)に源氏の軍兵がやってきて 「いま、われら源氏は一の谷において平家と闘っている最中だ、おとなしく兵糧米を出さぬか!」 と土地の代官を追い出し、いいがかりをつけて乱暴を働いてきました。
領主・水走康忠は、すぐさま使いを一の谷の源義経の本陣につかわし 、「有福は、水走家相伝の地にて父・季忠が開発し、朝廷に一定の官物を進納してまいりました。これに狼藉を働くことは耐え難い次第でございます。早くこれをやめさせていただき、この領地を安堵していただくならば、手前ども一族こぞって源氏にお味方仕まつりますのでご裁定をたまわりたい。」 と申し出ました。
義経は快く申し入れを受け入れ、「水走氏」は以来源氏の家臣として功名を挙げてゆきました。
「水走氏」は、このあたりの開拓領主であり、水軍を養成し川だらけの河内においてその機動力でもって、枚岡はもとより「大江御厨」の代官として運輸・交通・漁業・租税・市場の監督官として力をふるいました。
本拠地は五條で、巨大な本屋敷を擁し、四條にも大屋敷があったそうです。
やしろの武士団
枚岡神社の祭神・天児屋根命の末裔、中臣(藤原)氏の傍流に平岡氏という氏族があり、古代より枚岡の地を支配してきました。
「水走氏」は、その平岡氏から分かれた一族で、平安末期、康忠の父・季忠の時より頭角をあらわし平岡氏にかわって枚岡の地を治めるようになりました。
有福名に開いた100町にもおよぶ田畠を基に枚岡神社の神主として神社の領地を守るため武装し、「社(やしろ)の武士団」として名をはせて行きました。
よく知られているとおり、「枚岡神社」は奈良の「春日大社」の本家に当たり、祭神も同じ神さまであり、「水走氏」は代々これらの神さまを奉じてお仕えしてきたのです。
前述の「春日神社」は、「春日大社」から神さまを分霊して祀られたもの、すなわち「枚岡の神さま」が祀られているのです。
「ないりその渕」のほとりに「春日神社」の多い理由は、「水走氏」の影響が大きかったことからでしょう。
「ないりその」の落日
ところが鎌倉時代も末期にもなると、さしものその勢力に陰りが見えてきました。
「水走氏」も、つぎつぎと分家が増えて、力が分散されてきました。
衰えてきた勢力を保持するため、宗家の水走康政は、楠木正成に誼を通じ後醍醐天皇に味方し戦死しました。
残された息子たちは、それぞれ南朝、北朝と別れて争い、ますます その領地を減らしてしまうことになったのです。
室町時代の半ばには、かっての強大な武力を失い、一ケ郷から数ヶ郷ていどの領地しか持たない国人(土豪)たちと同格になっていました。
枚岡神社焼亡
そして天正二(1574)年九月をむかえます。
織田信長は、明智光秀・佐久間信盛に河内への出兵を命じました。
河内に蟠踞する三好一族と本願寺の一向一揆を掃討するためです。
発端は、信長から河内をおさめるべく遣わされた畠山昭高を、家臣の遊佐信教が暗殺したことに始まります。
遊佐信教は公然と信長に反旗を翻し、飯盛山に籠る三好一族や本願寺、そして東高野街道沿いの国人(土豪)衆に激を飛ばしました。
当時の当主・水走有忠は、それに応じ五条の屋形に遊佐信教を迎え入れ、遊佐一族らと共に枚岡神社に立て籠もりました。
有忠は夢を見、そして決断したのでしょう。
過去の栄光を取り戻せぬものか・・・・
しかし・・・・
信長軍は、田舎土豪の想像をはるかに超えていました。
明智、佐久間の兵たちは、一瞬で飯盛山城の三好勢を殲滅し、返す刀で枚岡神社に攻めかかります。
地面が見えないほど軍兵が充満しているのをみると、戦意はどこやらに消し飛んでしまいました。
有忠は、夜陰に乗じて脱出し、生駒を越えて大和に逃亡しました。
翌朝、枚岡神社へ信長軍は攻めかかり、神社に火をかけました。
折からの強風にあおられ、炎は中天高く舞い上がり、本殿および摂・末社十七社、神庫、雑庫にいたるまでことごとく灰燼と化したのです。
水走氏の父祖伝来の寝殿造りの九棟の建物を誇る「五条大屋敷」も焼け落ちました。
有忠が枚岡に帰ってきたのは、信長が潰えたのちの天正十一(1583)年のことで、枚岡神社の復興は慶長十(1605)年、豊臣秀頼の時代まで待たなければならなかったのです。
「五条大屋敷」の跡地は畠に戻り、現在の五条専宗寺の東の畠だと伝えられています。
「水走氏」は、こののち幕末維新のころまで枚岡神社の神主としてその社稷を守ってゆきました。
おはなし ひょこタンのパパ
(その20おしまい)
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