親子で楽しむ 『東大阪むかしむかし』
その18 かわちのすもう四十八手2017/03/08
村相撲ことはじめ
古くから河内は相撲の盛んな土地でした。
各村々でそれぞれ素人相撲の相撲部屋を持っていました。
村の力自慢が村の相撲部屋に入門し頭取(親方の事、河内ではこう呼ばれた)から四股名(しこな)をもらって稽古に励んでいました。
頭取は名跡であり、大阪相撲に出場した力士たちが地元で部屋を構え代々受け継がれてきたものです。
村相撲の頭取は村の力士を大阪相撲に送り出し、大阪相撲の頭取は村相撲の頭取を頼って地方で興行を行うという関係にありました。
村相撲と言えど、土地の若者たちが目指すのはやはり!大坂相撲・本場所であったんです。
村相撲おおいにふえる
明治にもはいりますと新興の部屋も多くなり、大阪にはおよそ80もの相撲の部屋がありました。
大東・東大阪・八尾市域だけでも 30 あまりの相撲部屋があり、あまりにも部屋の数が多いために、これらの部屋が集まって相撲組が出来ました。
東組 (北河内) / 西組 (守口方面) / 東中組 (東高野街道沿い) / 北中組 (布施・小阪方面) / 中組 (八尾・柏原方面) の五組です。
村相撲の風景
村相撲では部屋ごとに稽古が行われていました。
頭取によっては自宅に土俵をもつ者もいて、はんぱでない熱の入れようだったそうで・・・。
もともと、村相撲は村祭りに合わせてとりおこなわれてきました。
村祭りが終わった後、延々と朝まで取組が行われたり、他所の部屋の力士もおおぜい参加して競い合ったそうです。
5番抜きをした力士には御幣が贈られ、御幣に挟まっている賞金が貰えることが何よりも楽しみだったようです。
ところが他所から来た者に負けてしまうと主催の部屋は面目丸潰れですので、他所の力士が強いとわかるや、八百長をもちかけたり、喧嘩沙汰になったこともあるそうです。
祭りの日の村相撲、娯楽の少ない時代では村人がこぞって集まる楽しいひとときであったことでしょう。
村相撲の心意気
かりに村相撲といえ、部屋に入っている力士は、すべて四股名をもっていました。
かつて活躍した力士を出した家は、今でも名前や屋号で呼ばれず、四股名で呼ばれていることがあるそうです。
また四股名と同じく大事なのが廻しです。
廻しは普段、消防ホースを廻し代わりに使っていたそうですが、それでも部屋の筆頭格にもなると、頭取は弟子のために廻しを新調したそうです。
頭取は襲名で、新たに頭取になる者には、羽織袴や草履など様々な品物が贈られ、先代から部屋の力士の連名板や給金帳などを引き継ぎます。
新頭取は先代の名前を彫った墓の竿石を作り、先代に贈り、受け取った先代は亡くなるまで、自宅の玄関先にそれを置いていたそうです。
これらの習慣は、渡世人の習慣と似ていますね、かっては力士も草鞋をはく渡世人だったので、村相撲の社会にも任侠の風があったものでしょう。
村相撲むすびの一番
鴻池で昭和 24、5 年ごろ、第 16 代三笠山の襲名披露興行があり、第 40 代横綱・東富士が巡業に来ました。 鴻池では、この興行が最後となりました。
六万寺では昭和49年に、池島の第23代弓ヶ浜部屋の襲名披露勧進大相撲が興行されました。
水田を三枚借りてあつらえた土俵には、横綱・北の富士や輪島、その他力士200名がやってきました。
「東京相撲がこの地にきて興行される迫力は凄まじいものがあり、旧枚岡市の人がみな見物に来たのではないだろうか!というぐらいの人出であった。」と、語り伝えられています。
その盛んだった村相撲も、昭和30年代ごろから衰退してゆき、弓ヶ浜襲名披露のあと、完全に途絶えてしまいました。
150年にわたる河内の村相撲。
昭和49年の六万寺での襲名興行が、そのむすびの一番となったのです。
おはなし ひょこタンのパパ
(その18おしまい)
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