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親子で楽しむ 『東大阪むかしむかし』

その11  若武者、河内野に散る2016/02/09

むかーしむかし、河内には長く人々が語る若武者がおったんやでぇー

若江堤の怪火

若江堤の怪火

寛永11年(1634年)のことです。
若江の村の堤の上で、村人が夕涼みをしておりました。
すると50メートルばかり先でありましょうか、田んぼの上に1.5メートルほどの大きな怪しい火があらわれたそうです。

 何個も何個も、あらわれたり消えたりして、あちらこちらをふらふら飛び回り、まるか何かをさがしているかのような薄気味の悪さであったそうです。
この火は、大坂夏の陣で破れた豊臣方の武士が成仏できずに怪火となり、戦場となった若江堤の上をただようようになったという事。

村人たちは、大坂が落ちてから20年もたつのに、火となって燃え続けている妄念を想い、念仏を唱えながら帰ったと伝えられています。

白面の若武者

「木村重成 (きむら しげなり)」

「丈高く、色あくまで白く、眉黒々と際だち、細い眼のまなじりが凛と上がった美丈夫で、たぐい稀なる気品を備えていた」と伝えられ、大阪城の女官1万人が憧れていた若武者です。
早くから小姓として 「豊臣秀頼」 のそば近く仕え、信頼も厚く、22歳にして豊臣家の重臣として重要な会議にも出席するほどの者でした。

 そして、秀頼の母・ 「淀君」 の女官で、大阪一の美女とよばれた 「青柳」 という女子がおりました。
青柳、あるとき重成に一目惚れし、恋煩いとなり、寝ても覚めてもはなれぬ想い、その想いを伝えようと、歌を詠んで重成に送りました。

「恋わびて 絶ゆる命は さもあらはあれ さても哀と いふ人もかな」
(恋患いで死んでも構いません、「哀れ」と言ってくれる人もおるやもしれません)

すると、重成は次の歌を詠んで返しました。

「冬枯の 柳は人の 心をも 春待てこそ 結ひ留むらめ」
(冬枯れの柳は耐えて春を待ち、人の心を結びとめるでありましょう)

かくて2人は結ばれて、晴れて夫婦となりました。

しかしすでにこのとき 「豊臣秀頼」と「徳川家康」 の間は決裂、慶長20年(1614年)、ついに 「大阪冬の陣」 が始まったのです。

「真田幸村」・ 「後藤又兵衛」 ら豊臣方の名将の奮戦にもかかわらず、戦争に怖気づいた淀君たちにより講和が結ばれることとなり、重成は、豊臣家の代表として、家康から血判状を受け取る役目をあずかりました。

 そのおり、家康の血判が薄いと詰め寄り、「年寄りであるから血が薄いのじゃ」という言い訳をはねつけて、渋る家康に、もう一度血判を押させたという剛直なところをみせています。

その休戦もつかの間、ふたたび戦端が開かれました。
元和元年(1615年)、「大坂夏の陣」です。

若江合戦

豊臣家は、大阪冬の陣の結果、大阪城の堀が全て埋められてしまったために、徳川の軍勢を城をでて戦わざるを得ない状態になっていました。

徳川軍を迎え撃つために、新婚5ヶ月目の新妻と別れの盃をかわし、重成は六千の兵をひきい若江・八尾方面へ進軍しました。

 対する徳川軍、先鋒をつとめるは 「井伊直孝」・「藤堂高虎」 の兵およそ九千、若江方面の豊臣軍に向かいます。

 午前5時頃、重成は若江堤に着陣、敵に備えます。

 その右手に藤堂高虎の先鋒が攻撃をかけました。

 が、藤堂軍は兵の半数を失い敗走。

 この時点では豊臣軍が徳川軍を圧倒する形で戦闘はすすんでゆきます。

ここで、重成の家臣・ 「飯嶋三郎衛門」 が大阪城へ引き上げるよう進言しますが、重成は「まだ家康の首を取っていない」と語気を荒げ退けました。

重成の覚悟ほどが伺えます。

 戦いの様相が一変するのは、午前7時。

 井伊直孝は部隊を転進させ、西から攻撃を開始しました。

 玉串川の西堤を木村軍が、東堤を井伊軍がおさえ、早くから戦闘状態にあった木村軍は疲労し、井伊軍が優勢となってきました。
 木村軍は後退、堤は井伊軍が占拠することとなりました。

 重成は単身、槍をふるって勇戦、満身創痍に傷つき力尽き、戦場の露と消えたのです。

 そして豊臣軍は壊滅し、大阪城は落城、炎に包まれ消え去ったのでした。

もののふの魂

 家康の前に重成の首が運ばれてきたときのことです。

 重成の首から、かぐわしい薫りがただよってくるではありませんか。

「夏の初めというのに首にいささかの臭気もなく、髪に香を焚きこめたのは良き嗜みである。

兜の緒の端を切り落としてあるのは討死を覚悟した証拠、まことに天晴なもののふである。」

家康は感服したといいます。

重成は月初めから食事を控えめにしてきたといいます。

敵に討ち取られたときに、己が死体の臓腑が見苦しくないようにと、心がけたためであるということです。

まことに重成の心映えは、味方のみならず敵方の心までも打ったのです。

  妊娠していた青柳は、近江の親族にかくまわれ男児を出産、重成の一周忌を終えると跡を追って自害したと伝えられています。

まだ火はともるか?

第二寝屋川の対岸・八尾側に木村公園という公園があり、木村重成の墓が残されています。

若江岩田駅のすぐ南には家臣・飯嶋三郎右衛門の墓が。

三郎右衛門は高井田村の生まれで、井伊軍の若武者と戦って相打ちになりました。

それぞれ若くして無念を残して散ったことを悼み、弔いの墓が建てられたのでしょう。

中小阪の彌榮神社の駐車場の入り口は、市道より1メートルほど高くなっていて、馬立(うまんたて)と呼ばれています。

ここで重成は炎上する大坂城を見つめ、馬の上に立ちつくしていたと伝えられています。

400年余りの歳月は、若江堤の怪火を恩讐の彼方へと追いやったことでありましょう。

おはなし  ひょこタンのパパ

(その11おしまい)

その12をお楽しみに!

                                 

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