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親子で楽しむ 『東大阪むかしむかし』

その56  笠縫島に笠が舞う2021/06/15

住吉とか光洋軒のすぐ西側に、菅傘の史跡があるのを知ってるかな?

笠縫島に笠が舞う

あじろの里

これはこれは、けっこうなものをいただきまして、モモヤの「あじろの里」でございますな。

ありがとうございます、このあじろの里、玉子たっぷりのカステラにつぶ餡と甘露栗の絶妙な配分が絶品で、ほんまに布施の銘菓と言えばこれですなぁ。

この大ぶりの三笠、ご当地足代の名産の「足代笠」のようやと名付けられたそうですな。

なんでもこの足代やとなりの深江といったところは菅笠作りでむかしから有名なところやそうで、江戸時代、お伊勢参りにゆく旅人はみなこの菅笠を買い求めてかぶっていったそうですな。

深江笠と足代笠

深江でつくる菅笠は「深江笠」というて、年間200万人もお伊勢さまに参る人が、みな道中の安全を願ってかぶっていったほどで、全国的に有名なブランド品やったそうですな。

深江や足代、三ノ瀬・岸田堂・大平寺・長堂・森河内といったところは、もともとが湿地帯やったので菅笠の材料の菅がようけ生えていたんですな。

どこで拵えてもみな「深江笠」というて売ってたそうで、それに対抗して足代では、「足代笠」とネーミングして差別化して売ろうとしたわけですな。

もともとの足代の地名は「網代」という魚捕りの仕掛けから来たものやそうで、今の布施の地名は、明治22年に東足代・荒川・永和・菱屋西新田・太平寺・岸田堂の各村が合併するときに、何と名前をつける?というて、奈良時代このへんにあったという布施屋から採ったもんやと聞きますな。

ところでこの深江笠ですが、じつは20年に一度の伊勢神宮式年遷宮や天皇陛下の即位のときの「大嘗祭(だいじょうさい)」に、深江の町から献納されているそうで、それにはこういう由来があるそうですな。

笠縫島

おおむかし、このあたりは大きな島でしたんや。

八尾の龍華から足代あたりまで、大和川(長瀬川)と平野川と河内湖に囲まれた荒川郡そのものが「橘島」と呼ばれていたおおきな島やったそうで、龍華の地名も龍(たち)華(はな)から来たようでございますな。

その大きな島のそばに、また小さな浮島のような島があって「笠縫島」と呼ばれていたそうで、、

四極山(しはつやま)うち越え見れば、笠縫の島漕ぎ隠る柵なし小舟  高市黒人

押照る難波 菅笠置古し後は 誰が着む笠ならなくに       詠み人知らず

縫いつたる、こころ深江の菅こがさ、何の下にぞ名はみちにける   千草中納言 

万葉集や古今和歌集にも詠われております、この「笠縫島」がのちの深江でありまして、平安時代にははやくも菅笠が有名になってまして、座(ギルド)も拵えて独占的に売っていたんやそうで。

また菅笠は、実用品であるとともに、宗教的なものでもありましたんや。

そやからお伊勢参りのときに厄除けに被ったんでございまして、それはなぜかというと、

古代の祭りでは、神さんの降臨とか鎮座、ひいては即位とか、神さんがお出ましになられる祭りの儀式には菅笠は必ずなくてはならないものやったんで、つまり菅笠は神さんのすわる席でありましたんやな。

その菅笠を拵えていたんが、「笠縫氏」という一族でありましたんや。

古代の政治は祭りごと、世の中がすすむにつれて、あまりにようけの菅笠が必要となったので、大和の国だけでは菅が賄えなくなったんやそうで。

そこで「笠縫氏」の一部の人々は生駒山を越え、菅のようけ生えている河内の橘島へとやってきたんですな。

「笠縫氏」の人々がすみついたので「笠縫島」といわれるようになったんで。

菅笠には祭りごとがついてまわるかして、深江では平安時代、融通念仏宗の中興の祖といわれた法明上人がでられて、平野にご本山の「大念仏寺」を開きましたんや。

そのご本山に、信者の人々は大和川の東堤を通って詣ったそうで、十三街道と交わるその道を「融通道」とよんだそうで、さぞかし、そのみちでは足代笠ならぬ網代笠かぶった坊主が行きかったことでありましょうな。

菅笠盛衰記

これほど売れて繁盛をきわめた菅笠作りも明治にはいると、だんだんすてれていったそうで。

外国からさまざまな帽子が輸入されたり、こうもり傘が普及するにつれて、菅笠の需要はたんだん少のうなってゆきましたんや。

そこで打開策として、笠以外の菅製品を作ることにして、菅の皿敷などを拵えたんですな。

これが当たりましたんや、海外にも輸出されるようになり、足代村ののちに市長さんを出しはる塩川さんとこの工場がおおきく発展しはりましたんや。

足代では、皿敷を中心に瓶敷・パン入れ・菓子器など、その多くを菅笠の生産に行詰まった深江村に下請けに出しまして、「深江笠」のときとは逆に、深江で生産しながら足代の名前で売り広めはりましたんや。

一時は欧米に年額三万円も輸出されたほどやったそうですが、そうはうまくゆかんもので、大正のころになると、軍縮政策やなんやかやで輸出が止まってあかんようになってしもたんで。

菅の田も稲に変わり、終戦後にもなると宅地開発されてしもて菅もとれんようになり、菅細工は存亡の危機をむかえたんですな。

せやけど、深江では伝統ある菅笠の技術を守り伝えて行こうと、保存会が出来て、今でもなお、天皇陛下の即位・大嘗祭や、伊勢神宮式年遷宮のときには菅笠を献納しているんやそうで。

高井田ラーメン

ついでばなしではありますが、深江のとなりは高井田で、高井田と言えば鋳物工場で名高こおますな。

深江稲荷神社の境内に笠縫神社がおわしますねんけど、別の名を鋳物御祖神社というんやそうで、その名の如く、鋳物の神さまでございますな。

ゆらい、笠と鏡は古代の祭りごとにはかかせないセットやったそうで、笠縫氏は、天照大神の御神鏡をお護りしていて、鏡作部ともふかい繋がりがあったんやそうで。

むかしの鏡は銅鏡で鋳物でございます、鏡作部とは鋳物師の集まりでありましたんやな。

笠縫島の周りには大和川の土砂が堆積しておりまして、鋳物に適した土砂がようけありました。
そこで、笠縫氏とともに鏡作部も、この島にやって来て、平安時代をすぎるころには「河内鋳物師」として有名になっておりましたんや。

その「河内鋳物師」の流れをくむ高井田の鋳物工場で働いている人たちに愛されたのが、「高井田ラーメン」ですな。

麺は極太ストレート、鶏ガラと昆布の濃厚醤油スープがからまって、汗水流し身体が塩分をほしがってる労働者には打ってつけの中華そばでございます。

数少ない東大阪のご当地グルメとして名をはせたものです。

「高井田ラーメン」に、やはり数少ないご当地銘菓の「あじろの里」、食べもんにはその土地土地の来し方がぎっしり凝縮されていて、じつにおもしろいものでありますな。
 
おはなし  ひょこタンのパパ
(その56おしまい)


その57をお楽しみに!

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