親子で楽しむ 『東大阪むかしむかし』
むかーしむかし、瓢箪山で恋の辻占いが大流行。年間300万人も押し寄せていたんじゃ
豊太閤、浪速の東に稲荷を建つること
青い空、白い雲、何一つさえぎる物とてない河内の野、落成なった大阪城の天守閣。
太閤・豊臣秀吉は、南蛮渡来の遠眼鏡で広~い平野を見渡して、天下を統一した歓びにひたっていました。
と、ふと、生駒山の方を眺めていると、山の麓になにやら瓢箪型の小山があるではありませんか。
「これ、誰ぞおるか」、と声をかけ、ささっと側に来たるは、曽呂利新左衛門。
「この遠眼鏡で東の方を見てみりゃ~、何やら瓢箪の形をした小山があるがや~」
「ほんに、左様でございますな」
「瓢箪はわしにとっては縁起のええ特別なモノだがや、あの瓢箪山に神社を建てりゃ~。」
時に天正11年2月、春の始めのことでした。
とある僧、陋屋の祠で辻占はじむること
太閤秀吉のお声がかりで創建された瓢箪山稲荷神社・・・ではありましたが、江戸時代の半ばにはすっかり忘れ去られ、1尺6寸四方ばかりのささやかな村の祠(ほこら)となって寂れておりました。
由来、この瓢箪山には「河内名所図会」にも記されているように、辻占の風習がありました。
そこに幕末も慶応のころ、稲荷の祠の参道の辻に村の西光寺の坊さんが小屋掛けして辻占いの仲間入りしたことから変化がおこりだしたのです。
おどろくことに、その坊さん・山畑顕海(阿良美)の辻占は、百発百中だと評判なのです。
占ってもらう者は、縁談・失せ物などの願いごとを祈り、割り竹のおみくじをひきます。
一番、二番、三番と番号が書いてあり、例えば三番とあったなら、辻の占場に立って向こうから歩いてくる三番目の人を見て、どんななりをしていたか、男か女か、どっちから来てどっちへ行ったか、などを告げると顕海師はしばらく考えて予言すると、それがピタリと的中するのです。
あまりに当たるので、お稲荷さんのお使いのキツネが通行人に化けて、神さまの言葉を伝えているという噂まで出たほどなのです。
能登の人、稲荷の神託により出世すること
その瓢箪山に、能登の浪人・飯井藤吉という一人の武士がやってきました。
旅の疲れか土手で仮寝をしていたところ、藤吉のそばを盆に饅頭をのせた人が通り過ぎて行きました、それを辻占で占ってもらったところ、「西の賑やかな場所で商売せよ」、とのお告げです。
ご神託にしたがい、武士をやめ、戎橋南詰めに「魚すき」の店を開いたところ大当たり!その店「丸萬」は、大阪市民の間で「ちょっと張り込んで丸萬で魚すきたべよか」と人気の繁盛店となったのです。
藤吉は感謝して、稲荷の祠に、新たに大きな社殿を建てて寄進し、これがまた評判を呼んで、瓢箪山稲荷の辻占は良く当たると、年々参詣者が増えてきたのでした。
恋の辻占、瓢箪山の名髙らしめること
世は明治となり新たな時代をむかえました。
山畑顕海(阿良美)は、瓢箪山稲荷まで来られない人たちのために独特の「読み辻占」を考えだし、この辻占を「恋の辻占」と名付けて売り出しました。
今に伝わる「やきぬき・おみくじ・あぶりだし」の辻占であります。
明治から大正にかけて諸国の遊郭・花街では、辻占が流行していました。
遊客たちは「今宵の相方とはどうじゃいなと」と、年端のいかぬ少年少女の辻占売りから「読み辻占」を買っていたのが遊里の風物詩でありました。
~ 「吉凶だけの占いなら、わざわざ神社に行かんかて辻占売りが座敷まで持ってきてくれまんがな」と、お茶屋で妓たちをあげて遊んでいると、「淡路島かよふ千鳥の河内ひょうたん山恋の辻占」と、花笠に紅白のたっつけ袴の辻占売りが鉦を叩いて割竹鳴らしてやってきます、売り子の背中の柳の枝に紅白の餅花の瓢箪がたくさんぶら下げてあるのを「旦さんの福は、わてが貰うた」と、妓たちは嬌声を上げ、辻占をいれた餅花瓢箪を奪い合い、あれやこれやの大騒動 ~ といった光景が、当時あちこちの遊里では見られたことでしょう。
なぜ恋の辻占? 円(縁)と円(縁)を結ぶと瓢箪の形になるでしょ。
瓢箪山稲荷神社「恋の辻占」は、時の流れに乗り大ヒットしたのです!
その人気のさまは、尾崎紅葉や小泉八雲がその作品の中で書きのこしているほどです。
辻占売りの少女のみならず、全国を股に歩く行商人たちも日本各地で局留で何万枚と受け取っては捌いてゆき、最盛期には月に数十万枚売れたといいます。
そして明治15年、村会で瓢箪山稲荷の祠掌を定めることとなり、山畑顕海(阿良美)が宮司として迎えられました。
稲荷賑い、いまはむかしとなりぬること
鄙びた村の参道にすぎなかった瓢箪山も、稲荷の人気があがるにつれ、明治はじめには2軒しかなかったお茶屋・旅館が、明治の末年には30数軒にも増えてきました。
終戦前までは、「瓢箪山恋の辻占」は大阪の夜の風物詩であり、水商売の姐さんたちや相場師たちには大変な人気で、堂島の相場師たちは直接占ってもらいに瓢箪山へ参りにいったものです。
ご神託をいただくために来た人たちは、とうぜん瓢箪山泊まりで、旅路のつれづれに旅館の女中に戯れたりするので、旅館のほうでもそれ用の女を置くようになってきて、「瓢箪山稲荷皆お茶屋 茶屋の二階で三味が鳴る」とうたわれたほど、大阪人の人目を離れた遊び場として発展していったのでした。
「大阪朝日新聞」などにも、「辻うらといへば瓢箪山、河内といへば瓢箪山、瓢箪山の勢力は、五畿内はいふにおよばず、東国北国中国から、四国九州は愚か台湾あたりへも及ばされている」と書かれ、現在からは信じられませんが、年間300万人に及ぶ参拝客を集めていました。
そして大正3年、歴史的な日をむかえるのです。
大軌(現・近鉄電車)が開通して瓢箪山駅が出来たのです、これにより瓢箪山から上本町まで二十分でつながりました。
すると・・・
駅が出来たことにより、お参りの後一泊遊んで帰るというパターンが崩れ、追い打ちをかけるように終戦後の児童福祉法・売春防止法の制定で辻占売りや遊郭がなくなったため、瓢箪山の名を高らしめたかの「恋の辻占」も急速に歴史の彼方へ忘れ去られて行きました。
そして昭和30年代からの高度成長の波で、周辺がどんどん宅地化されてゆき、瓢箪山稲荷の参道街は埋没しその姿を消して行き、辻占の歴史を刻んできた、「占場」は、昭和43年に表の高野街道から神社裏手の入口へと移ってしまったのです。
現在、かっての参道筋の花街・宿屋町にかわって、瓢箪山駅を中心に出来たアーケード商店街「北の瓢箪山中央商店街(サンロード瓢箪山)、南の駅前東商店会とイナリ前商店街(ジンジャモール瓢箪山)」が大勢の買い物客でにぎわっています。
そして、お稲荷さんのお告げを運んできたキツネ「ひょこタン」は、今なお瓢箪山のマスコットとして街の人々に愛され続けているのですよ。
おはなし ひょこタンのパパ
(その34おしまい)
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