親子で楽しむ 『東大阪むかしむかし』
むかーしむかし、生駒の名前の由来となった馬たちが、遠い国からやって来たんじゃ
駒は生きかえる
むかしむかし、たくさんの駒が遠い異国から舟に乗せられて、ヤマトの国へやって来た。
長い船旅のおわり河内湖を渡るころには、どの駒も長い首をぐんなり垂れて、今にも死ぬかとばかりに弱り果てていた。
なにしも二月もの間、狭い船の中につながれて、干し草ばかりを食べ、ほんの少しの運動すら出来なかったのだ。
その駒たちは、小柄でずんぐりこそしていたが、それぞれ毛色も違い栗毛、河原毛、葦毛など、なかには立派な耳をしたのもいた。
上陸して馬屋に入れられても、いっこうに食が進まず、前足で地面を弱々しくかくばかり、手あてのかいなく死ぬ馬もあり、このままではいたましいことだと、兎にも角にも牧草の多い河内の山に放してみようということになった。
駒たちは久しぶりの日の光に喜び、緑の森の中へと入っていった。
新鮮な木の芽、やわらかな青い草、食欲も次第に取りもどし瀕死の駒も元気を取り戻し、急な斜面も軽やかに飛び跳ねるまでに回復した。
如月のころにもなると、牡牝二匹連れで山の小路を歩く駒も見かけるようになり、翌春にはかわいい仔馬も生まれた。
仔馬は生まれて一時間もすれば自分で立ち上がり、二度三度よろけながらもあどけない顔で母駒の乳を吸い始め、人々はその姿をあかずに眺めていたものであった。
駒がやってきた
「生駒山にいつのころであろうか、唐土より和国へ駒(馬)がやってきた、山に放してみれば、駒たち勇み気負って、病気だった駒も生き返ったので、生駒山と名づけられたのである」と生駒山の名前の由来が伝わっています。
山の名の字も 膽駒山-射駒山・伊駒山・伊故麻山・生馬山-生駒山へと変わってきましたが、その名の中心は「駒」でありました。
ところが、3世紀の史書「魏志倭人伝」には日本に牛馬なしと記されています。
古代の日本には、馬が生息していなかったのです。
それが4~5世紀にかけて、ぞくぞくとやって来ました。
どこから?
朝鮮半島から。
もちろん馬だけが来るのではなくて、それに乗る人・世話する人もです。
考古学では、福岡県から4世紀ごろの馬具が発掘され、宮崎県では5世紀ごろに葬られた馬の骨が出土しています。
東大阪側の生駒山麓では、5世紀~6世紀あたりの遺跡から、31にものぼる馬の骨の出土例があります。
これらの古代の馬は、すべて小型・中型馬でポニーに分類され、ずんぐりした体形、大きい頭、太短い首つき、丸々とした胴まわり、太くて短い肢、そして体質強健で、よく粗食に耐えました。
現代では、「改良」が重ねられたためにほぼ見かけることがなくなりましたが、それらの馬は、まず北九州にやってきておよそ1~2世紀かけて日本中に繁殖していったものと思われます。
騎馬民族が、日本列島に入り、土着の勢力を征服して大和朝廷を立てたという「騎馬民族征服王朝説」の是非はべつにして、この時代に大勢の騎馬文化を持つ渡来人たちが日本にやってきたことは間違いのないことでしょう。
駒がそだてられた
河内湖の東岸・生駒山麓には、馬の飼育を行う牧(まき)が多数散在していました。
河内湖は難波津に繋がり、古代の大陸との海路ルートでありました。
朝鮮半島を出て、玄界灘から瀬戸内海そして難波津、河内湖から生駒山麓にやってきて、馬を連れてきた渡来人たちとともにもここに住み着いたものとおもわれます。
日本書紀に神功皇后に新羅王が馬飼として仕えるという話がみえ、古事記には応神天皇が百済から馬を献上された記事が見えます。
事実ではないにしても、このことから馬飼部(馬飼いたちの部民)は新羅と百済の渡来人たちの系譜に連なると考えられます。
清らかな水と牧草に恵まれた生駒山が、馬の生育に見事に適してたことから、現在の四條畷から南へ、低地には馬を陸揚げする港、その上には集落が営まれ、高所には古墳が造られてゆきました。
高低差のある地形は馬の足腰を鍛えるのに役立ち、湖や川は天然の柵となって、この地域はまさに牧場としてピッタリの地形でありました。
5~6世紀ごろに造られたそれらの古墳は、それ以前の物と違い、石室が竪穴式から横穴式へ、副葬品には鏡などから馬具・武具へ、馬や騎馬装束の埴輪も供えられるようになりました。
瓢箪山稲荷の双円墳の形は、日本よりも新羅の慶州に多く見られ、上四条の山畑古墳群は、ほとんどの古墳に馬具が副葬されていることに特色があり、渡来人たちの影響が強くみられます。
駒は時代をうごかした
6世紀、武烈天皇の逝去後、直系の王位継承者が途絶えました。
各地の王族たちは色めき立ち、ヤマトの大王位に就かんと野望を膨らませたとき、ヤマトの重臣・大伴金村は、越前の男大迹王(オオドノオオキミ)を推すことを決め、越前へ迎えを送りました。
しかし男大迹王は、迎えの者の言葉に疑いをもち、すぐには王位に就くことを受けなかったのです。
この間、越前にある男大迹王に逐一詳細な情報を提供したものがおりました。
生駒山麓の馬飼部の首長・河内馬飼首荒籠(カウチノウマカイノオビトアラコ)であります。
荒籠は、ヤマトの混乱の状況、そして皆が寄って立つ王の到来を望んでいる様子を越前に運び、今こそ立つべき時であることを告げました。
そしていよいよ男大迹王が軍を興すと道案内の役を担い、男大迹大王は、第26代継体天皇として即位したのです。
河内馬飼首荒籠は、継体天皇の諜報機関として活躍しました。
馬飼部は飼育した馬を天皇家に納め、それが天皇より貴族たちに下げ渡されます。
馬は貴族自らが馭するのでなく、馬の馭者は馬飼部から派遣されます。
彼らはあちこちの貴族のもとで仕え、彼らが耳にした情報は、当然、馬飼部の首長のもとへと集まってきます。
男大迹王は、彼らの重要性をいち早く認識して、彼らと誼(よしみ)を通じていたのでありました。
駒は駆けさった
四條畷・大東の讃良郡や東大阪の河内郡を中心に、生駒山麓には、河内馬飼部の人々により良馬の量産と飼育が盛んに行われ、多くの馬たちの放牧や、その山容も相まって駒の群らがる山、駒形の山として、生駒山は「駒」~馬の山と考えられていました。
その歴史は奈良時代の初めまでつづき、平城京が出来るころに「馬飼いの里」は姿を消したと伝えられています。
おはなし ひょこタンのパパ
(その33おしまい)
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