親子で楽しむ 『東大阪むかしむかし』
その32 意岐部のクスノキは見ていた!2018/02/25
むかーしむかし、御厨天神社のクスノキが見ていた光景はこんなんやったかなぁ
根来
戦国時代の宣教師フロイスは、「和泉国の南には紀伊国がつづく、そこにはいくつかの宗教団体があり、その各々が大いなる共和国的な存在である」と記していました。
その宗教団体とは一つに高野山、二つに粉河(こかわ)寺、そして根来寺。
根来寺の衆徒は、他所の寺と全く違い、軍事訓練をお勤めとし、毎日一本の矢を作ることが功徳であると唱え、浄土真宗・石山本願寺に雇われ、その卓越した鉄砲打ちの技術でもって織田信長を長年にわたって苦しめてきたのであります。
天下統一をまぢかにむかえた羽柴秀吉にとって、この紀州の宗教自治地帯は目の上のたんこぶでありました。
天正13年(1585年)、ついに秀吉は兵をおこし、自ら100,000人の兵を指揮し、多数の軍船を揃えて、海陸両面から根来寺を攻撃したのであります。
根来寺は焼き払われ、ついで粉河寺もおなじ道を、高野山は秀吉の軍門に下り、仏法の共和国は消滅しました。
その夜半、根来寺の炎を背中で見ながらひたすら落ちて行く二人の衆徒がいました、規矩(きく)九右衛門と弟・新三郎であります。
新家
それから31年の月日が流れた元和2年(1616年)、規矩九右衛門と弟・新三郎が河内の「意岐部(おきべ)」の土地に姿を現わしました。
九右衛門兄弟は、入植し村を開きました、新しく開かれた村なので「新家」と呼ばれるようになりました。
「新家」の土地はあまりよくなく、砂地が多く日照りが強いときは田がやけ、いくら砂を掘っても水が出ず、とうぜん米や綿の収穫も少なくて、用水や井戸も少ないので開拓にはずいぶん苦労がともないました。
洪水にもしばしば苦しめられるので、百姓たちが小ぬかを食べながら築いた「小ぬか堤」とよばれる堤もあったそうです。
そして、「新家」のとなりには「御厨」と呼ばれる村がありました。
御厨
「意岐部」は古代の河内湖の南岸にあたっていて、西堤・長田・荒本をつなぐ線がその湖の汀線でありました。
河内湖には皇室領の「大江御厨」が設けられ、「御厨」の地名はここから朝廷に貢進する水産物を納めておく倉庫や会所があったことからつけられたといいます。
ここには大昔、聖徳太子が河内で合戦をしたとき、7年にもわたり悪疫が流行しため薬師如来を祀った「薬師寺」という寺があったそうで、はやくに廃寺となったようですが、その跡地に「御厨天神社」が祀られ、神社付近の字名に北坊・門屋小路・中小路・出口・敷地などが残されて、往時は大変大きな大伽藍だったようです。
「御厨天神社(あまつかむやしろ)」は、平安時代の法典「延喜式」で定められた「意岐部神社」であるともいわれ、「意岐部(おきべ)村」の村名はこの「意岐部神社」から来ていて、御厨、新家、荒本、のちの菱屋新田にまたがる大きな村です。
「御厨」の村は東西南北に分かれ、北が一番古く南が新しく開け、「暗越奈良街道」に面しているので大名行列も通り、その大名の泊まる本陣もありました。
「御厨」には戦国時代、石山本願寺の中核勢力として活動した商人もいたようで、なかでも「御厨次郎左衛門」は、本願寺寺内町に店を構え、村と連携を取りながら、商売を通じて、各地の情報を集め、各地の本願寺勢力との連絡係として活躍していたそうです。
河内では、農民地侍たちの結束を高めるため、村のアイデンティティとして浄土真宗を信仰し石山本願寺に協力していたのでした、九右衛門兄弟たちがこの「意岐部」に入植したのもこの所以だと考えられます。
菱屋
規矩家は苦労を重ね開墾をつづけて、次第に大きく成長してゆきました。
四代目の庄左衛門のとき、呉服商として大和郡山柳沢氏に出入りを許され、柳沢家の定紋「菱」を屋号にして「菱屋」を名乗りました。
ついで越後屋・三井家によしみを通じ、幕府御用をつとめるまでになったのです。
宝永元年(1704年)の大和川の付け替え工事が始まりました。
付け替えられて干上がった川床には多くの新田が開拓されました。
「菱屋」もこれに乗り出したのです。
庄左衛門、岩之助の親子は長瀬川、楠根川、玉串川の川床を開拓し、それぞれに「菱屋」をつけ、菱屋西新田、菱屋中新田(のち藤戸新田)、菱屋東新田と名付けました。
菱屋新田は三ヶ所、「菱屋西」は、取れ高215石、広さ20町で北へ新喜多まで、「菱屋中」は150石、13町で森河内まで、「菱屋東」は456石、44町で稲田まで、いずれも川沿いの細長いいびつな地形です。
しかし「菱屋」の全盛期も長くは続かなかったのです、何に入用だったのか菱屋岩之助が三新田を三井家に質入れして銀子を借り入れたのです。
そしてとうとう亨保17年(1732年)、「菱屋」は身代限り(倒産)、菱屋新田は三井家のものとなったのです。
新家の菅原神社には庄左衛門が寄進した鳥居がのこされています、それのみがありし日の栄華をしのばせます。
天神社のクスノキ
奈良街道に面した「御厨」は、明治に入ると、乗合馬車や人力車などが走り、「八尾警察署・御厨分署」などがおかれ、鉄道が通るまでの間、この地域の中心地として発展してゆきました。
「御厨天神社」には、現在、樹齢900年の東大阪市最大で最古のクスノキがあります。
幹周約6mを測る巨大なクスノキで、東大阪市の天然記念物に指定されています。
このクスノキが芽生えた頃は、河内湖が広がっていて「御厨」に多くの舟が出入りしていた様子を見ていたことでしょう、そして、村々の門徒の念仏の声、水が引いてゆく大和川、そして街道を歩む数多くの旅人たち、産業道路を走るトラックの群れ、ずっと見つづけて歴史の生き証人となってきたことでしょう。
おはなし ひょこタンのパパ
(その32おしまい)
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