親子で楽しむ 『東大阪むかしむかし』
その28 西日を歩く弱法師(弱法師)2017/12/04
むかーしむかし、かの有名な「身毒丸」のルーツが東大阪にあったんじゃ
四天王寺
「我は河内国高安の里の通俊と申す者にてございます。
息子を一人持っていたのでございますが、さる人の讒言により、暮に追い払ろうてしまいました。
今となっては、あまりに不憫、その子の安穏と来世での極楽往生を祈願して、四天王寺にて七日間の施行をつかまつっている次第。
本日が満願なるゆえ、よりいっそうの施しものをつかまつろうと思います。」
「我、盲目の身なれば、月の出入りも明け暮れの境目もわからずにすごしている。
かくのごとき憂いに満ちた年月をすごしていれば、いかなる前世の報いをうけたのであろうかと思う、人の讒言により不孝の罪に沈み、悲しみの涙かきくもり盲目とさえなりはててしもうた、まだ死ぬ前より闇に迷うているのだ。
末世と言いながら、さすが名に負う四天王寺、仏法最初の石の鳥居はここであるか、いざ立ち寄りて参ってゆこう。」
「今日は如月彼岸の中日、まことにありがたき仏のご利益、法界無縁の大慈悲に踵をついで群れ集まってくるぞや。
やや?これに出でたる物乞いは、かのあの弱法師であるな。」
「情けなや、皆な、われに名をつけて弱法師とおおせあるぞや。
まさしくこの身は盲目で、足弱のよろめきありけば、弱法師と名づけたもうは尤もではあるが。」
「おおこれなる垣根の梅の花が、弱法師が袖に散りかかるぞよ。
まことにこの花を袖に受ければ、花もさながら施行であろうぞ。」
「なかなかのこと、草の木もすべてのものが仏の施行なれば。
みな仏の大慈悲に、もれじと施行につらなりてまいらん。」
高安長者
河内国の高安の山畑(やまたけ)の通俊(別伝では信吉長者)は何不自由もない富貴者であったが、子宝にだけは恵まれず、そこで通俊夫婦は京都の清水寺の観音に参り、その甲斐あって子を授かることが出来ました。
俊徳丸と名付けられたその子は姿かたちが良く、頭も良い若者に育ちました、四天王寺の稚児舞楽を演じるまでになったのです。
その折、客席でこの舞楽を見た隣村の蔭山長者の娘は俊徳丸に魅かれ、二人は恋に落ち、文を取り交わして結婚の約束を取りつけました。
そんなとき、俊徳丸の母が亡くなってしまったのです、俊徳丸は持仏堂にこもり、母の菩提を弔います。
弱法師
通俊はまもなく新しい奥方を迎え、新しい奥方はすぐに男の子をもうけました。
新しい奥方は、俊徳丸のために我が子を跡継ぎにできないのが口惜しく、通俊にあることないことを吹き込みます。
俊徳丸は、継母の讒言を信じた父・通俊により家から追放されてしまいました。
彼は悲しみのあまり盲目となり、とうとう乞食にまで落ちぶれてしまいました。
盲目ゆえのよろよろとした姿から、周りからは弱法師とあざけられていたのです。
俊徳丸は、真西に沈む夕日を拝むため四天王寺を訪れます。
この日の四天王寺は日想観(じっそうかん)を行う人で賑わっていました。
そこには父、通俊もいたのです、通俊は俊徳丸を追い出した事を悔い、四天王寺で貧しいものに施しをすることで罪滅ぼしをしようとしていたのです。
折りしも今日は春の彼岸の中日、弱法師の袖に梅の花が散りかかります。
日想観
四天王寺の西大門は極楽の東門と信ぜられ、その昔はこの門前が波打際だったことから夕陽が西の海に入るのを拝み浄土を偲ぶ信仰がありました、、これが「日想観」であります。
余談ではありますが、「日想観」は四天王寺の真東、六万寺の往生院でも盛んにおこなわれていました。
「これなる者は、いかなる者ぞと思えば、我が失いたる子ではないか、これはいかに。
悲しみのあまりに盲目となりて、不憫にも衰えてしまっているではないか。
昼は人目もあれば、夜まで待ち父と名のり、高安へ連れて帰ろう。
いかに弱法師、そろそろ日想観の時刻なれば、急いで参りなさい。」
「まさに日想観の時刻なるべし、盲目なれば、心眼にて東門を拝み、南無阿弥陀仏。
今こそ日が落ちかかろうぞ、日想観なれば心で見ん、淡路、須磨、明石、紀の海までも、おう、見えるぞよ見えるぞよ。
いたずらに、かなたこなたと歩くほどに、盲目の悲しさよ、貴賎の人人々に突き当たり、まろび漂い足もとよろよろ、まさにまことに弱法師、人は笑うであろう、恥かしや恥ずかしや、もううかれまいぞ、もううかれまいぞ。」
俊徳丸が日想観を行うと、祈りが通じたか、これまで見えなかった景色が見えるではありませんか、気分が高揚した俊徳丸は、あちらこちらへと歩きまわり、行き交う人々にぶつかってよろけ、現実に引き戻されるのです。
目が見えたと思ったのは、ただの錯覚、そんな俊徳丸を見て周りの人々はあざ笑う。
二度とうかれまいと暗澹たる気持ちになる俊徳丸に、日が暮れると、父の通俊が話しかけました。
「夜も更け人も静まるこの時に、誰であろう、わが名を問い給うのは、我は高安の里の俊徳丸がなれの果なり。」
「さては嬉しや、我こそが父、高安の通俊よ。」
「さも通俊とは、わが父のおん声と聞くや、胸うち騒ぎつつ、これはいかにとて夢であろうか。」
「親に対して恥かしとてあるものか、どこへ逃げ行けども我は追いつき手を取りていざない、高安の里に帰ろうぞ、よいか、高安の里にかえろうぞ。」
父に話しかけられた俊徳丸は、乞食の我が身を恥じ、よろよろとしながら、あらぬ方へと逃げてゆくのです、通俊はそれに追い付き手を取って、彼を高安の家へと連れて帰るのでありました。
俊徳道
俊徳丸の物語は古くより語り伝えられてきました。
室町時代には能の「弱法師(よろぼし)」として、また説教節「信徳丸」として、そして江戸時代に入ると、浄瑠璃の「摂州合邦辻」として、今日にいたるまで、講談や歌舞伎・河内音頭などにとりあげられ、折口信夫は伝説から仏教的要素を取り払い小説「身毒丸」を書き、三島由紀夫や寺山修司が劇化するなど、さまざまな芸能のジャンルで育てられてきました。
俊徳丸という字は宛て字で、本来は「しんとくまる」であろうと考えられ、物語も説教節などでは、
蔭山長者の娘が盲目の「しんとくまる」を見つけ出し、二人涙ながらに観音菩薩に祈願したところ、「しんとくまる」の目は開き、夫婦となって幸福な人生を送り、継母は罰が当たって物乞いに落ちぶれたというように、さまざまなバリュエーションがあるようです。
そして現在でも、俊徳丸が高安の山畑(八尾市山畑)から四天王寺に通った道を「俊徳道」と呼んで、近鉄電車の駅名などにもその名を残しています。
おはなし ひょこタンのパパ
(その28おしまい)
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