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親子で楽しむ 『東大阪むかしむかし』

その24  ゆく舟くる舟、徳庵の堤2017/09/11

むかーしむかし、野崎詣りの舟が花盛りの徳庵堤を通っておったんじゃ

ゆく舟くる舟、徳庵の堤

野崎まいり

 野崎の観音さん、五月の一日から十日間、いわゆる「野崎まいり」といぅやつでございまして、たいへんに参詣人で賑わいをみせるわけでございます。

 ここにございました、いたって呑気な二人連れ、喜六と清八、「えぇ時候になったんで、ひとつ野崎さんへお詣りしょ~やないか」と二人どんどん歩みを進めまして、大阪城の前をはすかいに突っ切りまして、片町から京橋、さては徳庵堤へとかかってまいります。

 なんと申しましてももぉ大勢の人、その道中の陽ぉ気なこと……♪


 ご存知、上方落語「野崎まいり」の一節です。

野崎観音・慈眼寺は、寛文 11年(1671)、参拝者を増やすために秘仏の観音様を特別に開帳することにしました。

ちょうど、時候もよく、ハイキングコースとして手ごろであったためにおおいに流行りました。

享保6年(1721)には、道頓堀で「女殺油地獄」が上演され、続いて安永9年(1780)、「新版歌祭文」が上演されました、両方とも芝居の舞台は野崎まいり、これによりさらに有名になったのです。

大阪からは、天満八軒家から舟に乗り、大川から寝屋川をさかのぼり徳庵をへて住道から上陸して歩いていったものでした。

徳庵までくると「野崎まいり」の参拝者で一杯だったそうです。

徳庵堤

喜六が「歩き疲れた」と言うので清八は住道まで舟で行こうと言い、お百姓さんがお詣り時分だけ毛氈を敷いて客をのせる荷舟に乗り込みます。

「土手を歩いている連中は金が無いな」
「喜六、お前だって無いだろう」

 舟に乗って喜六は大はしゃぎ、やかましいと注意をすると、

「黙ってたら口ん中に虫が湧くねん」
「けったいなやっちゃ、ちょ~どえぇわ、土手通ってるやつと喧嘩せぇ」
「無茶言ぅたらどんならんで、向こぉがムカっとしよって、石でもビャ~ッとぶつけて来よったら、こっちは船ん中で逃げるとこないで」
「アホなこと言ぃな、誰がホンマに喧嘩せぇちゅうねん。
昔から(日本三参り)ちゅうて祇園さんの(おけら参り)金毘羅さんの(鞘橋の行き違い)そして、この(野崎まいり)。この三参りだけは、何ぼ口で喧嘩しても手ぇひとつ出さんちゅう、口だけの喧嘩や、ほんで、その年の口喧嘩に勝ったらその年の運がえぇ、運定めの口喧嘩ちゅうこっちゃ」

 徳庵川とは、明暦元年(1655)に新開池と菱江川を分離するために今福までの2.5kmを開削した大井路(人工水路)であり、その土手「徳庵堤」は新開池の北側を通りぬけ住道までつながる「古堤街道」でありました。

街道はほとんど堤の上で、舟と平行して進み、道行く者と舟で行く者との口でのやり合いは「ふり売り喧嘩」と呼ばれ、喧嘩に勝つとその年は縁起が良いが、けっして怒ってはいけないとされていました。

堤には出店もでてにぎわい、特に徳庵や住道は賑わったそうです。

徳庵はその大井路の船着場を中心にして形成された村であり、川沿いに徳という名の尼僧の尼寺があったことから、「徳庵」と呼ばれるようになったそうです。

後に、宝永元年(1704)の大和川の付け替えにより、「菱屋中」「橋本」などの新田が開拓され「今津」や「稲田」の地域をも含めて、「徳庵」と呼ばれるようになりました。

菜の花の岸

ようよう舟が出て、運定めの喧嘩を始めます。

喜六は清八から喧嘩言葉を教えてもらい、堤を行く人に喧嘩をふっかけてまいりますが、ことごとく負けてばかりでございます。
挙げ句の果てに「川へはまったらじゃこに喰われるから、舟端に出てくるな」と、一番気にしている背の低いことを皮肉られしょげかえり、

「清やん、もういっぺんだけ教えて」
「背が低い低いと軽蔑さらすな。大は小を兼ねるといえど、箪笥長持ちは枕にならん。牛は大きくても鼠をよう捕らん。江戸浅草の観音さんは、お身丈一寸八分でも十八間四面のお堂の主や。山椒は小粒でもヒリヒリと辛い、こない言え」

喜六泣きながら、

「背が低い低いとせんべつさらすな。大は小を兼ねるで。箪笥長持ち、ありゃ嫁入り道具や。牛は大きくても牛肉や、まだ食べたことないわい。江戸はドサクサ、深草、深草やったら少々(少将)の違いや。観音さんはお身丈十八間で一寸八分のお堂に入ってござる」とめちゃくちゃです。

で、最後に「山椒はヒリヒリと辛いわい!」

すると堤の男が「教えてもろた通りに言え! 小粒が落ちとるぞ」
「どこに~?」

お金が落ちてると思って探してございました。

徳庵川は現在、寝屋川の一部となり、コンクリートの垂直護岸の高い塀で川面さえも見えません。

しかしこの当時は、徳庵堤の土手には菜種がたくさん植わっていたそうです。

5月のこの時期「どこを向いても菜の花盛り」という光景で、そこをのんびりと野崎まいりの屋形舟がゆく。

舟の中で、行商から買うた「別品餅(べっぴんもち)」を頬張っていたことでしょう。

昔から稲田の農家がおやつとして作ったのが「別品餅」。

別品とは特別な餅という意味で、石臼でひかれたきな粉と、蒸して柔らかい餅が合わさった素朴な餅は街道の名物となっていました。

野崎小唄

 野崎参りは 屋形船でまいろ
どこを向いても 菜の花ざかり
粋な日傘にゃ 蝶々もとまる
呼んで見ようか 土手の人

 その「野崎まいり」も明治をなかばをすぎると寂れはじめました。

 舟にかわって鉄道が登場してきたからでした。

そうはいってもJR片町線は、前身の「浪速鉄道」が野崎まいりや四条畷神社への参詣鉄道として明治28年(1895)に開通させたものだそうで、「徳庵駅」もこのとき開業しました。

 ところが大正にはいると南に大軌鉄道(現在の近鉄奈良線)が開通、瓢箪山・石切・生駒・奈良への参詣が盛んになり始めると、相対的に野崎観音の人気が落ちてきたのです。

 そこで危機感をかんじた野崎観音の関係者たちは、昭和8年(1933)、人気歌手・ 東海林太郎に依頼して「野崎小唄」を制作し大ヒットを放ちました。

 が、それも2、3年のことで終わったようです。

そして舟は去る

衰退する舟運を挽回すべく、大正3年(1914)に城東巡航合資会社の30人乗り巡航船が寝屋川・天満橋 ~今福間の巡航を始め、今福から徳庵まで延長されました。

が、昭和7年(1932)に片町線が電化すると乗客が減りだし、昭和9年(1934)に大阪市バスが片町から徳庵方面へ乗り入れることになったので、ついに廃業することとなりました。

とうとう徳庵の堤から「野崎まいり」の舟を見ることは無くなったのです。

しかし野崎観音へは、今なお年5月の期間中、野崎駅より野崎観音までの参道に300軒ほどの露店が建ち並び20万人を越える人出で賑わっています。
おはなし  ひょこタンのパパ
(その24おしまい)


その25をお楽しみに!

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