親子で楽しむ 『東大阪むかしむかし』
その17 翼よ、あれが生駒の山だ!2016/10/26
楯津に飛行場があった
その昔、東大阪に飛行場がありました。
当時、駅で切符を買うとき、「大阪陸軍飛行場へ行きたいのですが」と言うと、
駅員は「ハァ?それ、どこですか?」と言うので、
「楯津飛行場ですが」と言い直したら
「あぁ!はい、わかりました」とわかってくれたそうです。
人々は、その飛行場を「盾津飛行場」と呼んでいました。
現在の東大阪・本庄のトラックターミナル・機械団地のあたりに終戦前、「盾津飛行場(大阪陸軍飛行場)」があったのです。
ガソリン代は俺が出す
「俺は飛行機に乗りたい」
箕面の造り酒屋・笹川家の長男・良一は決意し、大正5(1916)年知り合いの飛行機乗りに弟子入りしました。
ライト兄弟が空をとんでまだ13年、良一の両親は猛反対しましたが、一旦決めたら梃子でも動かぬ良一の性根。
両親もあきらめ、以後みっちり2年間、飛行機の操縦や修理の技術の習得に励みました。
それらを通じて、笹川良一には、「これからの国家を支えるのは飛行機である」と確信がうまれてゆきました。
笹川良一、終戦後、政財界の黒幕として、「ドン」と呼ばれた男の若き日の姿です。
昭和6(1931)年、満州事変。
「これからは航空機時代」ということで、飛行機が急に製造されるようになりましたが、操縦士と飛行場が不足していました。
国粋大衆党総裁となっていた笹川良一は、「国粋義勇航空隊」を組織しました。
非常時には戦闘に参加でき、いつでも民間から飛行機乗りを国家に役立たせることが出来るようにと、無料でその養成をはじめたのです。
「飛行機に乗りたいものはだれでも来て練習しなさい、ガソリン代は私が出してやる。」
その練習飛行場として、楯津に目をつけました。
「楯津村」
昭和6(1931)年、 西六郷村・東六郷村・北江村の3村が合併してできた村で、村名は日本神話よりとられ「楯津」と名付けられました。
民家の少ないのどかな田園地帯でした。
そして大阪のスモッグに影響されず気象条件が良いことから、笹川良一は、ここに飛行場を建設することに決め、みずから各方面に働きかけ、寄付を募り、住友・三井・三菱その他から42万7千余円を集めました
その「盾津飛行場」は昭和9(1934)年に完成。
設計時は民間の「国粋義勇飛行隊飛行場」としてスタートしましたが、完成後、笹川良一は陸軍に献納し「大阪陸軍飛行場」となりました。
空に舞う青雲
献納されて「大阪陸軍飛行場」となった「盾津飛行場」ですが、陸軍の部隊は常駐せず、基地とではなく飛行訓練場として使用され、その管理は変わらず「国粋義勇航空隊」に任されていました。
飛行場では、国粋の隊員たちが練習に励んでいました。
全国から集まってきた隊員は15人、練習機は複葉プロペラ機10機、陸軍払い下げの中古機で天気のよい日を選んで飛びました。
「みんな飛行機好きばかりでした、軍隊のような厳しさは無く、学校のような雰囲気でした。
でも練習機が中古品なので時速7,80キロで電車なみだとみんなで笑ったものでした」
と、当時の教官はしのんでいます。
滑走路は生駒山の方向に向けて延びていて、飛行場の大きさは、面積・約十万坪、長・940m・幅・60m、現在の関西国際空港の25分の1程度だったそうです。
飛行機が飛ぶときは人の通行を止めたり、滑走路に電柱や電線があるので、上を通過するか下をくぐるかして飛び立ったものだそうです。
また、全部が草っぱらなので、生駒山から見るとどこが飛行場か見分けがつかず、雨や雪の日なぞは場外へ不時着したこともありました。
そして地盤が軟弱なために、重い飛行機の車輪がめり込むなどして「盾津飛行場」は、重要な基地となりえなかったのです。
終戦後、伊丹や八尾が残されたのに楯津が消えてしまったのはこういう理由が大きかったのです。
生駒の山に翻る翼
昭和10(1935)年6月18日、わが国ではじめてのグライダー飛行が「盾津飛行場」で行われました。
同じ年の10月8日には、ドイツからホルンベルググライダー学校校長であり、世界的なグライダーパイロットであったウォルトヒルトが来日。
11月初旬、「盾津飛行場」で2万人の観客の前で、ヒルトと日本人パイロット・志鶴忠夫が、連続宙返り、横転、きりもみ、超低空滑空といった模範飛行を披露しました。
翌年、1月には、志鶴忠夫は、生駒山で9時間23分という、当時としては驚異的な滞空記録をつくりました。
昭和15年には、大軌が生駒山上にグライダー練習場をつくったので、山上から「盾津飛行場」への飛行もさかんに行われるようになりました。
大学のグライダー部の練習場所や全国学生航空大会・日本帆走飛行連盟グライダー大会、楯津飛行場はグライダー飛行場といて一世を風靡しました。
飛行機からトラックへ
その「盾津飛行場」も、戦局の拡大につれて、昭和16(1941)年、西隣にあった「大阪練兵場」とともに海軍に移管され、川西航空機・松下航空機などの試験飛行場として使用されました。
海軍兵と動員学徒らちが、飛行場の格納庫を工場として、木製飛行機「明星」の組み立てに従事し、出来上がった飛行機はテスト段階で少し離陸しただけで墜落してしまったそうです。
このまぼろしの木製飛行機「明星」は、関係者の間では「赤とんぼ」と呼ばれていたそうです。
ここで訓練した学生の何人かは特攻隊員として南の空へ。
「学生たちから特攻隊として飛ぶという手紙をもらいました、が手紙が届いたころは飛びたった後で返事を出すことさえできなかった」
と教官は語っていました。
終戦後、「盾津飛行場」は、もとの耕作者たちに払い下げられ、のどかな楯津村へと戻りました。
払い下げられた兵舎や格納庫は、「盾津中学校」となり、戦後の新制中学としていち早く開設できたのは、飛行場があったおかげだと聞きます。
そののどかな村は、昭和40年代に、日本の経済を支える流通センターへと180度姿を変えます。
昭和44(1969)年、大阪府が飛行場跡地の大半を購入、流通団地・トラックターミナルとして整備し、かって国をささえた飛行機は、現在トラックとなって変わってゆきました。
おはなし ひょこタンのパパ
(その17おしまい)
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