親子で楽しむ 『東大阪むかしむかし』
その9 河内のドン楠木正成と忍者?2015/12/15
むかーしむかし、ここらへんはすごいたたかいのげんばやったんやでー
二つの朝廷・二つの武士団
14世紀、天皇家はまっぷたつに分かれ、日本中が南北それぞれの皇室を担いで争った時代があったのです。
その時代を南北朝(なんぼくちょう)時代と呼びます。
河内の国もご多分にもれず、戦乱のまっただ中に放り込まれました。
南河内の豪族・楠木正成(くすのきまさしげ)は、南朝の後醍醐(ごだいご)天皇に味方して北朝方の足利尊氏(あしかがたかうじ)と闘いました。
この楠木正成とその一族は、「悪党」と呼ばれていて、普通の武士たちとはすこし違っていました。
足利方の武士たちは、平素は田畑を耕し、戦争の時に鎧に身をつつむ農民だったのに対し、楠木方の悪党たちは、運輸・鉱山・港湾・市場を取り仕切り、そのみかじめで武装した新興勢力の武士たちだったのです。
南北朝時代とは、二つの朝廷と二つの武士団がたがいに争った時代だったのです。
河内の首領(ドン)
楠木一族は、正成の父・正遠の代には、大和川の水運を牛耳って、千早赤阪で採掘された水銀を水路で運んで売りさばき勢力を拡大しておりました。河内にも大きな影響力をもち、玉串・吉田や福万寺・池島のあたりを支配し、枚岡の豪族・水走一族をも身内に組み込んでいました。
正成の母・正遠の妻は玉串の豪族・橘氏の出身で、一族は池島城を本拠地として活動していたようです。そのため、正成の出生地は玉串だという言い伝えが、地元には残されています。
枚岡神社に残された古文書には、
「元弘正慶(1331~1334)の頃、楠木正成の激に応じて恩智、枚岡や豊浦・松原の者どもが参戦し、
枚岡神社にまいりて軍功をいのり、奉幣をささげて神託をうけた (後略) 」
と記されています。
能楽・忍者・河内モノ
楠木正成と言えば、およそ100万にも及ぶ鎌倉幕府の大軍を、千早赤阪城にて迎え撃ち、わずか1000人の寡兵でもって打ち破ったことで有名です。
正成は知略に長けた優秀なゲリラ戦の指揮官であったと言われています。
そのゲリラ戦の要とは、いかにして相手方の情報を集めるかにかかってきます。すなわち、忍者を有効に使いこなさなければならないのです。
これを裏付ける面白い資料が存在しているのをご紹介しましょう。
昭和37年、伊賀の旧家から発見された「上嶋文書」には、伊賀服部一族の上嶋元成の三男が能楽の祖『観阿弥』で、その母は河内の楠木正遠の娘であると記されています。
能楽の祖は伊賀忍者の息子で、楠木正成の甥だったのです。
元来、芸能者は、土地の有力者に招かれ御前で芸を披露することが多く、宴席にも侍ることができるので、秘かにスパイの役割も負っていました。
湿地の多い河内の国は水路が発達し、その舟着き場には市場が出来て、数多くの商人や宗教者そして芸能者が集まってきて、各地の情報のターミナルとなっていました。
それらの水路や市場を支配していたのが河内者の楠木正成とその一族。
そう!そこから、忍者の棟梁・楠木正成の姿が浮かびあがってきますよね。
河内野にはためく幟は菊水か!
正成の長男の正行(まさつら)は父・正成の死後、足利方と生駒西麓の東高野街道(現・旧国道170号線)を戦場にして戦いました。
いわゆる「四条畷(しじょうなわて)の戦い」です。
そして四条畷の主戦場は、今の四條畷市ではなく、東大阪市の四条縄手(枚岡・瓢箪山近辺)であるという説があります。
もちろん、正行の本陣が六万寺の往生院ですから、東大阪市から大東市にわたっての広い範囲で戦場になったことに違いはありませんが、四条畷市の「四條畷」という地名そのものが、明治に建立された四條畷神社にちなんで、昭和になってから付けられたものなので、やはり東大阪市が有力だと思われます。
さてその四条縄手の戦い・・・・
1347年、足利尊氏は家臣の高師直(こうのもろなお)に8万の軍勢を与え、南朝の吉野の皇居を襲撃すべく出陣させました。
対する南朝方では、天皇みずからが正行に、足利方を撃滅すべく命令を下しました。
しかし正行の手勢はわずか3000人! 8万対3千!!
正行は死を覚悟し、吉野の如意輪堂の扉に「返らじと兼て思へば梓弓なき数に入る名をぞとどむる」と辞世の歌を刻み、一族郎党153人の名を書いた過去帳と各自の髷を切ってお堂に納め、その日のうちに「菊水」の幟を押し立てて出陣しました。
正行は、たちまち飯盛山の足利方の先陣を落とし、続けざま日下にて高師直の本陣を急襲し大打撃を与えました。
しかし生駒山を迂回してきた足利方の遊軍に、背後から攻撃されたために、衆寡敵せず、ついに力尽き自刃したのです。
東大阪・楠公遺跡をさがせ
現在、瓢箪山稲荷の鎮座する瓢箪山古墳が、江戸時代以前は四條縄手の戦死者を弔った塚だと思われていたように、枚岡や瓢箪山一帯では、村のあちこちで井戸を掘ったり畑を作ったりすると当時の武具・馬具・遺骨が掘り出されるほどの激戦地でした。
正行の本陣だった六万寺の往生院は、楠木一族の要塞でもあり、正行は、この寺で育ち武芸や学問に励んでいたのです。
その往生院も足利方に焼き払われていたのを、江戸時代初期に池島村の庄屋で楠木正成の末裔である冨家氏が再興し、正行の墓所も往生院の境内に祀られ供養されています。
地元の縄手小学校の校章は、終戦前までは楠木一族の紋章「菊水」でありました。
この地域には、、、、
枚岡梅林の「正行の首洗いの井戸」
額田の「正行の首塚」
五条の、正成の末裔の開いた「専宗寺」
正行の家臣を祀った、四条の「歯神さま」の祠
四条の霊光院境内の「小楠公之碑」「南朝忠臣戦死えいこつ之所碑」
近鉄瓢箪山駅構内の「楠木正行公墓」の案内の石碑
など、現在でも数多くの遺跡が残されています。
近所にある史跡をたずね、遠い昔の河内のドンに思いをはせてくださいね!
おはなし ひょこタンのパパ
(その9おしまい)
その10をお楽しみに!