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親子で楽しむ 『東大阪むかしむかし』

その3  東大阪にハリウッドがあった!2015/06/04

むかーしむかし(というほど昔じゃないけど)、東大阪には映画撮影所があったんやでー

老人ホームの映画スター

昭和も半ばのころ、別府温泉のとある小さな老人ホームでの話です。

体が不自由で療養していた一人の老人がいました。

その老人が、ほかの入居者たちとテレビを見ていたとき、なにかのことで「俺は市川百々之助やったんや」と言い出しました。
 
市川百々之助(いちかわ もものすけ)

遠い昔、まだ映画が無声映画だったころ、一時代を築いたチャンバラスターです。

全盛期は、坂東妻三郎(田村正和のお父さん)より人気があり、女とみまがう美貌で髪ふり乱し、立ち回りの裾からこぼれる真っ白いフンドシに、数多くの女性ファンが心を乱され、黄色い声をはりあげて「フンドシ百々ちゃん」と呼んで、熱狂的な人気を集めていました。

トーキー映画になると忘れられましたが、周囲の老人たちにとっては、かりにも往年の大スターが、片田舎の寂れた老人ホームに入っているわけがないと、てんで相手にしなかったそうです。

それでも、まわりに相手されなければされないほど、自分は「帝国キネマ」の大スター・市川百々之助だったと言いはってやまなかったそうです。

帝国キネマの誕生

1912年(明治45年)1月16日、大阪の千日前が焼け野原になるほどの「ミナミの大火」と呼ばれる大火事がおこりました。

このままだと大阪が衰退すると憂いた南海電鉄は、ある男に再建を依頼します。

山川吉太郎(やまかわ きちたろう)

千日前の娘義太夫「三友倶楽部」の席亭で新進気鋭の興業師、アイデアマンとして知られた男です。

1914年(大正3年)、吉太郎は、現在のビックカメラの場所に、かって見たこともないアミューズメントセンター「楽天地」を建設しました。

千日前の「楽天地」、大正時代の大阪を代表する新名所です。

1300坪の敷地に地下1階・地上3階の円形ドームの建物の中に映画館・寄席・劇場(かの名女優・
田中絹代はここでデビュー)はては、メリーゴーランド・ローラースケート場・水族館などなどの施設がひしめき、夜にもなるとイルミネーションが輝き、不夜城と呼ばれました。

さて、その山川吉太郎。

「楽天地」の経営だけにあきたらず、1916年(大正5年)には映画製作にも乗り出します。

折りしも大正末年から昭和初期、大阪は未曾有の好景気にわきかえり、映画産業も急速に発展、映画会社や撮影所もタケノコのごとくに方々に乱立していました。

総面積570坪・建物44坪・舞台20坪ほどの撮影所を、現在の東大阪市の河内小阪駅付近に建設しました(のちの帝国キネマ小阪撮影所)。

そして1920年(大正9年)に、「帝国キネマ演芸株式会社」を創設しました。

吉太郎が興した「帝国キネマ」は、彼の努力と時流に乗って、規模を拡大し、日活・松竹に続く日本第三のメジャー映画会社へと成長していくのです。

籠の鳥

1923年(大正12年)9月、関東大震災がおこりました。

日活や松竹が大打撃を受けたそのとき、吉太郎は「よし、今こそチャンス」と、わずか3千円の費用で映画史上に名を残す「籠の鳥」を制作しました。

1924年(大正13年)、映画の封切には、おそろしいほどの観客が殺到し、入りきれない人たちが劇場を四重・五重と、とりかこんで順番を待つありさまとなりました。

「あいたさみたさに こわさを忘れ 暗い夜道を ただひとり…」
「あいにきたのに なぜ出てあわぬ いつも呼ぶ声 忘れたか…」

大阪市内は「籠の鳥」の主題歌のメロディであふれ、無声映画「籠の鳥」は、歴史に残る大ヒット作となりました。

3千円の制作費で35万円もの収益をあげた吉太郎は、手狭になった小阪に代わる新たな撮影所を求め、全額つぎこんで、長瀬に「帝キネ長瀬撮影所」を建設したのです。

東洋のハリウッド

「生駒連峰が、なだらかな曲線を東北に張っている、小松の白い地面を美しく抜き模様にする。
空気はよし、香気が時には、あまねく漂ふ広潤な土地。さらばこそ、此処・長瀬の地こそ凡ゆる方面からして見て、極めて、私達の希望條件に合致したものがあったのです。」と、吉太郎はほれ込みました。

現在の東大阪市の長瀬駅近くに、敷敷地面積約17万坪、かまぼこ型の200坪のステ-ジ2棟のほか、その他設備も整った、東洋一の規模を誇る「東洋のハリウッド」ともよばれた広大な「長瀬撮影所」を新設しました。

長瀬川周辺・金岡公園・長栄寺・中小阪の旧村・花園津原神社などなど東大阪市内のあちらこちらで映画のロケーションが行われ、撮影所近辺にはハイカラな住宅が建ちならび、市川百々之助ら帝キネの銀幕スターが往来して、それは華やかだったそうで、映画関係者の宿舎や自宅があり、地元の人たちは、ロケを見に行くことを楽しみにして、エキストラとして参加した人も数多くいたそうです。

1930年(昭和5年)2月に、キネマ旬報ベストテンで第1位に輝いたプロレタリア映画「何が彼女をさうさせたか」が大ヒットし、インテリ層の間でも評判になるもつかの間、トーキー機材への投資が経営を圧迫し、ライバルの日活や松竹が関東大震災から復興し、帝キネ以上の資金で映画を製作するようになったため、さしもの帝国キネマも窮地に陥るようになりました。

夢のあと

その年の9月の深夜のこと、漏電により突然出火して 東洋一を誇った帝国キネマ長瀬撮影所は一夜にして全焼、たった2年で、この世から姿を消してしまったのです。

このころ、「楽天地」も吉太郎の映画制作の多額の借金で営業が立ち行かなくなってきて、長瀬撮影所を焼失したのと時を同じくして、「楽天地」もついに閉鎖してしまいました。

それやこれやで翌1931年(昭和6年)に、とうとう「帝国キネマ」は松竹に吸収されて消えてしまったのです。

吉太郎は莫大な借金を背負い、3年後の1934年(昭和9年)4月、「籠の鳥」の主題歌を聞きながら目を閉じ、58歳の生涯を終えました。

帝国キネマの大スターだった市川百々之助は、刃傷事件などのスキャンダルから人気が凋落し、トーキー時代を迎えるといつしか世間から消え、1978年(昭和53年)、療養先にて71歳で亡くなったと伝え聞きます。

帝国キネマの製作陣は、ほとんどが京都太秦の撮影所(現在の東映京都撮影所)に活躍の場を移しました。

でも一部の人たちは、あくまでも東大阪に残り、独立プロを立ち上げ、瓢箪山に撮影所を設けて、数本の映画を製作しました、が、本当にわずかな期間で潰えたようです。

ここに東大阪のハリウッドは夢のあととなったのです。


おはなし  ひょこタンのパパ
(その3おしまい)

その4をお楽しみに!

                                 

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