親子で楽しむ 『東大阪むかしむかし』
その51 あばた観音の数奇な奇跡2020/05/25
流行り病から逃れるための祈りの場所が岸田堂にあったんじゃ
疱瘡
疱瘡(ほうそう)とは、天然痘のこと、天然痘ウイルスを病原体とする感染症の一つです。
強い感染力を持ち、致死率が平均20%から50%と非常に高く、仮に治っても顔に醜い「あばた」を残します。
日本にはもともと無く、渡来人が大勢来るようになった6世紀半ばに最初の大流行が発生して、
日本書紀に、「瘡いでてみまかる者、身焼かれ、打たれ、砕かるるが如し」と記されました。
奈良時代にもふたたび大流行、平城京で政権を握っていた藤原四兄弟や高位の貴族も相次いで死亡したため朝廷の政治は大混乱におちいって、奈良の大仏造営のきっかけとなったほどでした。
医学の発達していない時代では病魔に対抗できるのは、神仏のみでありました。
岸田堂
おおむかし、現在の布施の周辺一帯は、長瀬川(大和川)や平野川の氾濫した湿原に浮かんだ島のような土地でした。
「岸田堂」もその一角にあり、岸田はもちろん地形から来た名で、堂はここにあった「慈眼山長楽寺」のことだといわれています。
長楽寺は、推古天皇の創建と伝えられ、土地のものはもとより河内の国中のものが参詣に訪れるほどの寺でした。
いつのころのことでしょうか、岸田堂に太田主計(かずえ)という長者がおりました。
たいへん篤実な人柄で人望も厚く、長楽寺にまつられている観音さまを熱心に信仰していて、お詣りに来た人々に施行をし、よく世話をしていました。
太田長者には、年のころ十四ばかりになる玉姫という一人娘がいて、その美しさは近隣にまで聞こえていました。
まだ年端のいかない娘とは思えぬほど慈愛に満ちていて、不運を嘆く人たちには話を聞いてやり、足腰の不自由な人には杖を、身体の悪い人には薬を、貧しい人にはお金を恵んであげたので人々は彼女を観音さまの生まれ変わりとあがめていました。
玉姫
このような姫でありますから、縁談もふるほどあり、遠く都の公達や大名、大身の武家らがひっきりなしに使者をたててやって来たものです。
かれど玉姫は、どなたにも首をたてにふりません。
そうです、姫には想い人がいたのです。
木原監物という文武に優れた信心深い青年武士で、仕える主君の病気平癒の祈願にやって来たとき玉姫を見初め、姫も凛々しい監物に好意を抱いたのでした。
想い想われ日が経って、二人は長楽寺の境内で婚礼をあげました。
人々は二人を心から祝福しました、が、なんとしたことか、姫はこともあろうに人々の忌み嫌う疱瘡に冒されてしまったのです。
あの麗しき花の顔は「あばた」で一夜にて醜く変わり、悲嘆のうちに姫は亡くなりました。
やつれた監物は、変わり果てた妻の亡骸を白木の棺に納め、長楽寺の太田家の墓に埋めたのです。
その夜の事。
天の定めといえども妻の死を受け入れることが出来ない監物が、暗い夜空を見上げると、天空から一条の光が飛んできて寺の方へ向かってゆくではありませんか。
監物、我に返り、光のあとを追うと、光は姫の墓を照らし出し、埋められた土がみるみる盛りあがり掘り起こされて白木の棺が浮かび上がってきました。
監物、驚き、棺の蓋をあけます。
すると、そこにはきらめくばかりの妻の姿がありました。
疱瘡のあとかたもなく、生前の麗しい顔にもどっていたのです。
玉姫は生き返りました。
監物が息を吹き返した妻を抱きしめていると、寺の観音堂の扉が開き、眩いばかりの光の中から十一面観音さまが姿を現わされたのです。
その日はちょうど1月18日でありました。
奇跡
まさに奇跡です。
観音さまは、今後とも来生の人たちを疱瘡から守り厄難をすくうであろうと告げられ、姿をお消しになられました。
そののち、監物夫婦は観音堂の横に夫婦塚を建立し、供花を絶やさず、1月18日には、たくさんの供え物をして価な香木を焚きました。
この噂を聞き伝えた人々は、河内はもとより五畿内の端々からも参詣にくるようになり、石段には下駄草履の音が聞こえない日は一日たりともなかったといいます。
後世、江戸時代には東西約60m・南北約36mにもおよぶ大きな寺院となり、井原西鶴の「男色大鑑 ・本朝若風俗」に「河内の国岸の堂という観音の場に煎豆を埋みて(天然痘の治癒)祈る事あり」とあばたを治す仏さまとして紹介されています。
関帝廟
1796年(寛政8年)、イギリスの医師エドワード・ジェンナーが発見した牛痘による予防接種は世界中にひろまり、人類の脅威であった天然痘の撲滅のみちがひらかれました。
もうそうなると、疱瘡除けの仏さまも用がなくなります、長楽寺も明治にはいると参詣者も激減し、檀家が少なかったためもあって経営が困難になり、明治25年(1892)には廃寺になろうとしていました。
ここにどういう経緯かはわかりませんが、神戸の貿易商で華僑の成功者「呉錦堂」(獅子文六著・バナナのモデル)氏が中心となって、廃寺になりかけた長楽寺の本尊の十一面観音をはじめ仏像・建物などすべて神戸へ持って帰り移転したのです。
神戸に移された長楽寺は、改めて宇治の黄檗宗・萬福寺の末寺となり華僑の寺院として「南京寺」と呼ばれるようになり、十一面観音さまとともに関羽雲長が合わせてまつられて「関帝廟」となりました。
関羽雲長とは、劉備・趙飛・孔明とともに活躍した三国志演義のヒーロー・関羽さまのことで、
商売の神さまとして華僑の信仰が厚いのです。
神戸大空襲で一旦は全焼しましたが復興され、現在、神戸名所としてたくさんの観光客をあつめています。
長楽寺であった名残に関帝廟のなかに「長楽寺の手水鉢」が残されています。
一方、岸田堂の寺のあとはすでに夫婦塚も無く、境内に繁っていたという樹齢何百年かの大きな枝のない楠の木が残されているだけになっているそうです。
おはなし ひょこタンのパパ
(その51おしまい)
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