生駒トンネルが開通して上六から奈良まで電車が走るようになると、日当たりや眺めがよく大阪から電車で一時間という日下や枚岡は、大阪のええし（金持）の別荘にはもってこいの土地でありました。
江戸の昔よりつづく木綿問屋・根津商店も、現在の動物霊園のある「稲荷山」に、述べ3000平方メートルの敷地に別荘と従業員寮、座敷に座ったままで大阪市内を一望できたという庭園を拵えました。
　その根津家の別荘に、文豪・谷崎潤一郎が仮住まいしていたことがありました。

　文豪・谷崎潤一郎は、生涯に三度の結婚をしました。
二度目の妻・吉川丁末子との結婚生活は、谷崎の浪費癖がたたり、家を売り払って高野山へと移り住むも、金もなく行くあてもなかったありさまです。
進退窮していた谷崎に、根津商店の御寮人・松子夫人から救いの手が差し伸べられました。
　谷崎は、昭和6年9月、稲荷山の根津家の別荘に移りました、都市に近い山中の高級一軒家、谷崎好みでありました。
　その上、この稲荷山は、谷崎の敬愛する江戸時代の文人・上田秋成が仮住まいしていた日下のそばでもありました。
　谷崎は、秋成の「雨月物語」や多くの作品から感化を受け、文学に目を開かされた、いわば恩師でもあるのです。
　谷崎の脳裏には、日下のひなびた寺に閑居する秋成の姿がありありと思い浮かぶのでした。
　寺の庫裡で、盲しいた蛙面の老人が、乏しい明りのそばで寂しく夕飯を摂ろうとしているありさまが・・・

　老人は、おぼつかない手つきで、焼き米を茶碗にあけて湯を注ぎ、そばにあった本をふたにして蒸らし、生味噌をおかずにしながら貧しい食事をはじめました。
　わきにはねられた、湯気で表紙がふくらんだ本には、安永五年刊・雨月物語と・・・・・上田秋成、幼名は仙次郎。
　大坂曽根崎に父のわからない私生児として生まれ、堂島の紙油問屋の養子としてもらわれるも火災で破産。
　「雨月物語」を書き上げるも、一部での評価にとどまり、くらしの為、医者になっても藪医者との評判ばかり。
思うに任せぬ人生に、目が見えなくなり、妻に先立たれてからというもの底なしの孤独の淵に沈んでいたのでありました。
自殺まで思い詰めるほど窮していた秋成に誘いの手を差しのべたのは、かっての弟子で日下の里に住まう唯心尼でありました。
　彼女は大阪の商家の内儀でありましたが、夫と死別してから日下に尼となって隠棲していたのです。
　彼女は秋成を日下に迎え入れ、住まいを見つけてやりました。
生駒の裾野の和やかな人気に癒されたか、河澄常之や森公道といった土地の名士とも交わるようになり、秋成を中心とした日下文芸サロンというべきものが始まったのでありました。
　こののち、秋成は大坂に帰り、晩年の傑作「春雨物語」を上梓しました。
　廃人同様の秋成が、心を持ち直して新たな境地を開いたのは、この日下の里の日々と、彼を秘かに慕う唯心尼の心づくしであったことであろうと思われます。

　谷崎を支援した、根津家の松子御寮人は、藤永田造船所の専務の四人姉妹の次女として生まれました。
　20歳で根津商店へと嫁ぐも、夫の素行が悪く、芥川龍之介のファンであった彼女は、来阪中の芥川と同行していた谷崎と知り合いました。
　そこから松子御寮人と谷崎の交流がはじまったのです。
　根津家の別荘に移りすんでから2ケ月後、ふたたび、谷崎は夙川の根津家別荘へと移ります。
　そして明くる年、谷崎は丁末子と別居、離婚するに至りました。
　谷崎の心は、根津家の御寮人への憧憬にあふれていたのです。
　昭和7年、根津商店が倒産、松子御寮人は離婚し、松子と谷崎は芦屋でいっしょに暮らし始めました。
　一生の伴侶、松子と三度目の結婚をしたのです。
　「春琴抄」や「盲目物語」は松子を念頭に置いて書かれ、「細雪」は、松子の四姉妹（朝子、松子、重子、信子）のことを描いたものです。

（その４９おしまい）

その５０をお楽しみに！

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