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親子で楽しむ 『東大阪むかしむかし』

その46  伊勢参り、奈良街道はおお賑わい2019/09/23

伊勢参りはわが町東大阪とふかーい関係があるんじゃ

伊勢参り、奈良街道はおお賑わい

東の旅

日本人なら、一生に一度はお参りしたいのが伊勢神宮。

江戸時代、およそ3000万人ほどの人口だったのにもかかわらず、お伊勢参りには年間500万人、実に6人に1人がお参りに行ったそうでございます。

そして、またなんと、数百万人も群れ集ってのお参りも、60年ごとに3回も起こりました。

これを「おかげ参り」といいまして、奉公人が主人に、子供が親に無断でお参りしても、信心の旅ゆえ咎められず、沿道の施しで金が無くても旅が出来たそうでございます。

足の悪い主人、病弱な主人の代わりにおかげ参りをした犬さえいたそうで、「おかげ犬」と呼ばれ、道中の宿屋や茶店の人が世話をしてお伊勢さまに着くと、犬はお札を貰い、無事に主人のもとへ帰ったのでございます。

さて、そのお伊勢参り、大阪から奈良まで八里八丁(約34k)の最短一直線の「暗越奈良街道」を通ってまいります。

その道中は落語にもなっており、「東の旅」という演目で喜六と清八という両名の若いもんが、「ひとつお伊勢参りでもしょうやないか」ということで、「玉造」にやってまいります。

二軒茶屋

奈良街道の始まりは「玉造」、道を挟んで北に「ます屋芳兵衛」、南に「つる屋秀次郎」という二軒のお茶屋がありまして、それでもってここらを「二軒茶屋」といいました。

両名、ここでちょっと一杯ひっかけまして、見送りに来てくれた友だちと別れて出発いたします。

見わたしますと、ここからやはり大勢の人たちが、伊勢音頭をうたいながら集団で賑やかに旅立ちいたす様子、なにせ多い年には一日7万人がこの道とおってお伊勢参りに行ったそうでございます。

茶屋のそばには猫間川が流れておりまして、川に架かる石でできた「黒門橋」を渡ると、東にまもなく平野川に架かる「玉津橋」に出てまいります。

「玉津橋」、のちのことではございますが、明治の末には「中河内馬車鉄道」の乗合馬車が瓢箪山まで走っておりました。

「玉津橋」を渡ると、人家もまれでひなびた様子、田んぼの果てには生駒山を望みながら、南へ東へと曲がりくねった道をまいります。

この道は「五千石堤」と申しまして両側より一~二間ほど高くなっておりまして、大昔の河内湖の汀の堤防でございまして、まわりで米が五千石獲れたことから「五千石堤」と呼ばれておりました。

 その道筋には、現在、新道と神路の商店街がございますが、「新道」は暗越の「旧道」に対しての「新道」、「神路」は神武天皇が通ったことから「神路」と呼ばれるようになったそうで。

そうこうするうち大今里にはいり、熊野大神宮をすぎると「深江」の村へとやってまいります。

深江笠

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伊勢音頭でここまできた人たち、「笠を買うなら深江笠」てなことを申しまして、争って道中笠を買いととのえます。

喜六と清八もつられて、名前は深江笠でもそのじつ浅ぁい菅笠を買いまする、ゆらい菅には浄めるはたきがあると申しまして道中安全を願ってお伊勢参りには必ずかぶったものでございます。

 この「深江」と申すところ、ふるくは河内湖の湿地でございましてあほみたいに菅が生えていたことから、菅笠作りが盛んになって伊勢神宮の式年遷宮にはこの地から納めるほどの土地の名産品となっておりました。

 さてこのあたりから奈良街道は、現在の産業道路にかさなってまいります。

 高井田すぎて長瀬川に架かるは、「新喜多(しぎた)橋」。

大和川の付け替えまでは川幅広く、渡し船で渡っておりましたので、かっての西岸に「渡し地蔵」というお地蔵さまがまつられて、現在でも残されてございます。

 そら、宝暦元年(1704年)の大和川付け替えはえらいもので、街道の眺めは一変したものでございまして、あたり一面の池沼湿地がきれいさっぱりなくなって見渡す限りの綿畑となったのものでございます。
 
「新喜多橋」こえると「御厨(みくりや) 」へとまいります。

村には、大名のお泊りになる立派な本陣がございまして、明治のころにもなると馬車の車輪を点検修理する鍛冶屋などもあったそうで、馬車の駅のようになっていたと申します。

 「御厨」こえると「菱江」の村、村には今とは違い街道沿いに22軒ものお店がございまして、えらく賑わっていたそうで、このあたりかっての水郷の名残でありましょうか、壁に剣先船の舟板をつかった「舟板塀」の家が多うございます。

松原の宿

わいわい言いながら両人、次にやってまいりましたのが「松原宿」。

 この「松原」、暗越奈良街道、唯一の宿場町でございまして、この宿場町というもの、自然に勝手に出来たものではございません、幕府や大名が街道を通るとき馬や人足を用意させるために作らせたもので、その馬や人足はすべて地元の村々の負担でございました。

村々にとってはたまったものではございませんが、かわりに人がぎょうさん集まって来て、暗がり峠越えの難所を目の前にして皆ここで泊まり宿場はたいそう繁盛したものでございます。

繁盛した宿場には、必ず「おとなの遊び場」もうまれます。

 松原のL字型の町筋には、14~16軒の宿屋に9軒の茶店がございまして、宿屋茶店には「飯盛女」「茶汲女」と呼ばれる女が各店に二名ずつ、本当のところ七、八名おりまして遊女のように「これは良い客、のがしはならじと手にした長~いキセルの雁口を、格子の窓から男の袖にひっかけからませ足を止めさせ」と、引っ張られる喜六を清八引っ立てるように歩いて参ります。

 恩智川に架かる「水走橋」をわたってしばらくまいりますと「宝蔵新家」の四つ辻、奈良街道と東高野街道の交差点、現在の「箱殿」の五差路でございます。

 ここから豊浦こえて、いよいよ難所中の難所、標高455mの「暗がり峠」へとまいります。

暗がり峠

 枚岡神社をすぎて、やってまいりましたは暗がり越え、うっそうと松杉が茂った昼なお暗い峠道でございまして、特に「椋ガ嶺(くらがね)橋」にかけては、今とはちがい七曲りのたいへんな難所でございます。

 両人ふうふう息を切らせながら峠道をのぼり、ホトトギスの名所「髪切山慈光寺」を北にのぞみながらたどり着きましたは峠のてっぺん。

 峠の上には宿屋や茶店が立ち並び、大名行列のために敷かれた石畳の道には、さきほどからの伊勢音頭の一行もひと休みしていて、山の上とは思えぬほどの賑わいでございます。

 このあと両人、榁木峠から尼ヶ辻へと奈良へまいって上つ道、初瀬街道、伊勢街道へとすすみまして、この続きは、「奈良名所」「野辺」「煮売屋」「七度狐」といったおはなしへと、まずはこれまででございます。

「暗越奈良街道」、この街道いまもむかしもこの道の大切さはひとつもかわることがございません。

昭和に入ってからも「府道大阪枚岡奈良線」いわゆる「産業道路」となりましてむかしに変わらぬ賑わいをみせておりまする。
 
おはなし  ひょこタンのパパ
(その46おしまい)


その47をお楽しみに!

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