親子で楽しむ 『東大阪むかしむかし』
その45 大阪、東のみどりの園2019/07/24
東翠園
八戸ノ里の南300mほどのところに、東翠園と呼ばれる住宅地があります。
昭和11年に小阪町が建設した新興住宅地で、八戸ノ里駅はこの宅地開発に合わせて開業しました。
住宅地の建設戸数は50戸で、80坪・64坪・51坪の3通りあり、いずれも二階建て木造瓦葺き。
外観や間取りは、和風と洋風を取り混ぜた11種類が設計されました。
建築が始まった昭和11年8月6日には、すでに数倍の購入申し込み者があり、抽選によって居住者が決定されました。
この町営住宅は、入居者たちにより「東翠園」(大阪の東のみどりの園)と名付けられました。
その名の通り、各家には塀を造らず生垣で囲い、5mおきにアカシヤの並木が植えられた、モダンでハイカラな住宅地であったのです。
八戸ノ里
東翠園が出来るまで八戸ノ里は一面田畑ばかりの土地で、付け替え前の大和川の水にさらされた泥沢地でありました。
そこに八人の入植者が現れ田畑を開いたのです。
それは大阪夏の陣の直前にさかのぼります。
豊臣家の家老・片桐且元は、主君・豊臣秀頼と徳川家康との和解に奔走するも、事破れ裏切り者の汚名を着せられ追放されました。
奈良街道を通って、自分の居城である茨木城へ帰る途中、且元を慕う家臣と酒を酌み交わし別れを惜しみました。
そのとき且元は、八人の家臣に向かい、「武士をやめて、土地を耕して生業をたてよ」と言ったのです。
家臣らは近くの土地に八軒の家を建てたので、それ以降、八戸ノ里と呼ばれるようになったということです。
八戸の里の地名は、正式な地名の表示に存在せず、中央環状線以西、近鉄奈良線付近一帯の通称で、旧村の下小阪村だった地域にあたります。
小阪村
小阪は大むかし、「おさか」と呼ばれていました。
蓮如上人の残した文によると、大阪も、もともと「おさか」と呼ばれていたそうで、
おそらくは小阪の地域が、大阪の上町台地に似た地勢であるので、大阪にたいして小坂の里と呼ぶようになったとかんがえられます。
阪の字に阪の字を使うようになったのは明治以降で、それ以前は坂で表記されていました。
長瀬川より西は低地であり、上・中・下小坂が高地になって緩やかな坂になっていることから、幾度も洪水の被害も受けてはいるのですが、戦国時代には幸いにも戦乱に巻き込まれることがなかったそうです。
村の古老はいまなお上小坂(かみおさか)、中小坂(なかおさか)と発音しているそうで、旧大和川の流れに沿って南より上小坂、宝持、中小坂、下小坂と呼ばれてきました。
宝持だけ村の名前が違うのは、四天王寺より40年前に宝持寺が建立されたため宝持の名がついたとも、また、そこに土地や作物の豊穣を祈る「祝司部(はうじべ)」が住んでいたために訛って「はうじ」と呼ばれたともいわれています。
明治になりその四ヶ村が合併し小阪村が成立、昭和に入って小阪町となりました。
大軌
大正3年、小阪の村に電車が通りました。
大阪電気軌道、略して大軌。
当時、大阪は東洋のマンチェスターと呼ばれ大発展をつづけ増大する人口に悩まされていました。
都市化の進行は、企業勤務のサラリーマンや弁護士・医師・教員などの中流階層者を出現させました。
それら中産階級は、新しいライフスタイルをもとめ、新たな消費ニーズを生み出しました。
都市の喧騒を離れた郊外の住宅地への欲求が高まってきたのです。
大軌においても、大正のなかほどから沿線における土地経営が本格化され、額田山荘などの分譲に着手しました。
各土地会社もこぞって乗り出したのですが、「中河内は水が無い、郊外居住を営むには余りに無趣味で景勝の地ではない」などと新聞に書かれ、沿線のブランドイメージがもう一つだったようです。
新しき家
その大軌沿線の小阪町に、日本で最初の町営分譲住宅が計画されました。
この住宅建設案は、昭和10年2月27日の町会に提出され、翌28日の大阪朝日新聞に、中流以上の家庭に模範住宅50戸を小阪町で建てると報じ、同時に小阪駅の東七丁の地点に新駅設置の計画が進められていることを報じました。
小阪町では、町の東部を発展させるために、低地の田園地帯であった八戸ノ里地区の開発に力を入れることになったのです。
翌年、11月には新駅「八戸ノ里駅」が完成、南の町営住宅「東翠園」の真ん中に幅8メートルの府道が開通して北の駅と連絡するようになりました。
そしてその11月の15日、町営住宅・東翠園が落成し盛大に挙式式典が執り行われ10日ののちには新しき家に二百余名が新しき住人として移ってきました。
その評判や、「さすが府都計課が腕によりをかけて設計しただけに景観や間取りが普通の住宅と比べてよほど立派に出来ている」と各新聞などでは記され中河内のブランドイメージを高めるのに役立ちました。
小阪町はその後、昭和12年に合併して布施市となりました。
大軌、いや近鉄沿線は、そのあと幾たびかの開発ラッシュで人口の爆発的増加をむかえ、かっての田園風景はあとかたもなく消え、東大阪市へと発展していったのです。
東翠園も、徐々に時代の波で街並みも変わっていったそうで、いまでは戦前昭和のハイカラの面影を伝える家を見かけることはまれになったそうです。
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(その45おしまい)
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