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親子で楽しむ 『東大阪むかしむかし』

その44  夜空にまわる、ものづくりの心意気2019/05/26

ひがしおおさかの町工場はこうしてできたんじゃ

夜空にまわる、ものづくりの心意気

まわるまわる、工場が回る

 生駒のうえに浮かんだ丸い月も、ロシアとの戦争が近いと聞いて、不安げに雲に入ったり出たりしてる夜中の8時、静かな静かな四条の村で、地蔵さんのうえにある納屋だけが、ガタガタ騒がしい音がしています。

 いったい何かと、納屋の小窓を覗き込むと、14、5人の若い衆が、汗をかきかき一心不乱になにか作っている最中でした。

 納屋の中は工場になっていて、ひとりの若い衆が汽車の車輪のような鉄の輪を、手で動かして回しています。

 真っ赤な顔をして汗びっしょりになって回した輪が、動力となってベルトに伝わりモーターが回って、板金からなにか刃のようなものをプレスして抜き取ってゆきます。

 その抜き取った刃を、もう一人の若い衆が手製のヤスリで、刃をととのえ、ネジの溝を切り上げて行きます。

 ジャッキ!? どうやら作っているのは「ジャッキ」のようです。

 「ジャッキ」とは両手であつかうバリカンのこと、舶来物しかないと思われていた「ジャッキ」が、こんな片田舎でつくられていたとは・・・

 この納屋の持ち主は、大阪の奉公先で覚えてきた技術をもとに、このジャッキ工場をはじめたそうな。

 そこに、村の若い衆たちが給金がもらえると聞き働きに来た、仕事はえろうて、朝の7時から晩の7時まで、いやいや夜なべで夜中の11時まで、もちろん盆と正月以外は休みなし。

せやけどどんなにきつうても現金が手に入る、ジャッキ作ることによってお金が入る、工場で働くことが、小作人にとって唯一お金を見ることが出来るすべでありました。

まわるまわる、糸車回る

1704年(宝永元年)、大和川付け替えののち、河内平野は一面の綿畑となりました。

河内の百姓たちが「河内木綿」を一心に育てたのは、綿作が稲作より儲かったからであります。

その儲けたるや稲作のおよそ二倍、ただ「綿作」は肥料の多い少ないや世話の上手下手で、収穫量と品質に大きな差が出ました。

十分な資金と労働力が必要とされ、そのため綿作百姓は「才覚」を持たなければならなかったのです。

栽培された綿は、糸車でつむぎだされ綿布に加工され、その値打ちを何倍にも増やし、百姓の現金収入を増やしてゆきました。

ところが、大正にはいると・・・

外国からの輸入綿糸におされ、綿畑は姿を消してしまったのです。

 河内木綿の衰退は河内の百姓たちに大きなショックを与えました。

百姓たちは「綿作」では食えなくなり、商売替えをしなければならなくなりました。

職を失い困窮する者や大阪に奉公に出た者も多くいたのですが、そこは河内者のど根性!

手になじんだ糸偏がらみでタコ糸などの撚糸業をはじめたり、歯ブラシを拵えたり、雲斎織(足袋)を拵えたり、と、「才覚」を働かせて切りぬけてゆきました。

まわるまわる、鋳物は回る

そのころ布施のほうでは、鋳物がさかんで鉄瓶や茶釜などがさかんに作られていました。

布施の鋳物は、「河内鋳物師(かわちいもじ)」の流れをくみ、たいへん優れた鋳造の「技術」を持っていました。

「河内鋳物師」とは、奈良時代から続く河内国丹南郡(松原市)を本拠に諸国を回って鋳物の鋳造や販売を生業としていた技能集団のことです。

昭和に入ると、その「技術」は軍事目的にも応用されて、機械の鋳物部品生産へと移り変わってゆきました。

東洋のマンチェスター・大阪の膨張は、この地区をものみ込み、鉄道や道路が整備され田畑から工場が立ち並ぶようになってきました。

大阪市内からも移ってきた工場ももありましたが、木綿で食い詰めて奉公に出た者が、奉公先で新しい技術を身に付けてはじめた工場も数多くあったのです。

まわるまわる、水車は回る

布施から目を転じ東のほうでは、生駒山の急峻な谷川を利用した水車産業がふるくから行われていました。

石切の辻子谷の薬種加工や枚岡の豊浦谷の伸線工業など、谷ごとに特色をもった産業が興っていました。

谷沿いでは早くから、人力でなく、「水車」という動力を用いる方法をいちはやく見いだしていました。

電車が開通して「電気」が通じると、またすぐに「電力」へと機敏に切り替えてゆきました。

「電力」により、枚岡の伸線産業は大きく発展し、工場群は西へと延び、布施地区において螺子の製造や金網の加工と言った派生産業をも生み出しました。

ここに東と西が出会い「ものづくりのまち・東大阪」のはじまりとなったのです。

河内木綿がつちかった「才覚」は、優れた「技術」と「電力」という力を得て回りだしました。

まわるは、お寿司か人工衛星

東大阪は、幸い第二次大戦の戦火を免れ、戦後の復興にいち早く乗ることができました。

戦後のミシン産業の発展により、その頭や脚の製造で鋳物工業は勢いを見せ、ほかにも伸線・金網・作業工具・鋲螺とさまざまな地場産業がおおきく発展しました。

地方から出てきた若者たちは、親方のもとで腕を磨き、貸工場を借りてどんどん独立してゆき、町工場のまちとして活気づくようになりました。

高度成長の時代、およそ500棟はあったという貸工場の2階では経営者一家が暮らし、明日の夢をつむいでゆく光景がみられたのです。

現在、東大阪市は都市別工場密度「全国1位」を誇り、「ものづくりのまち」として、新幹線や東京スカイツリーに使われる螺子、紫外線から目を保護するスポーツ用サングラスなども市内の企業で製造され、私たちの社会を支えています。

企業城下町の系列ピラミッド構造とは違った、「うちはでけへんけど、あんたとこやったらできるんちゃうか?」という、横請けネットワークでもって、各企業がそれぞれの専門分野に特化した独自の技術を向上させてきました。

 たとえば、布施の元禄寿司が高井田の町工場にたのんで日本で初めての寿司を回すベルトコンベアを開発したように・・・当時のキャッチフレーズは「人工衛星回る寿司」。

ソ連のスプートニクスにあやかってつけたのだそうですが、いまではその東大阪の町工場ネットワークが本物の人工衛星をつくるまでになり、完成した「まいど一号」は遥か大宇宙を回りました。

 「ものづくりのまち・東大阪」の町工場、それぞれがライバルでありながら良き同志、その心意気やいまや夜空に輝く星を回っているのです。
 
おはなし  ひょこタンのパパ
(その44おしまい)


その45をお楽しみに!

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