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親子で楽しむ 『東大阪むかしむかし』

その40  生駒の西の巨大な池2018/11/27

むかーしむかし、ここらは大きな池じゃったんじゃ

生駒の西の巨大な池

川派(かわまた)の女

河内国の若江郡・川派に、子供を抱いたひとりの女人がいた。

名僧・行基が川派で、集まった人々に説法をしていると、その女人の子がうるさく泣き止まず人々に説法を聞かせなかった。

この子、10歳も過ぎても歩けず、いまだ母の乳をのみ、たえまなく何かを食べているという、いわくつきの子で、母なる女人はそれがためにやせ細っていた。

それを見た行基は、「その子を川に棄てよ」と言ったのだ。

しかし、母親は棄てることができなかった。

明くる日も女人は子供を抱いて説法に来た。

子共は泣きわめき、やはり人々は説法を聞くことができなかった。

ふたたび行基は、「その子を川に棄てよ」と言った。

慈悲深い行基が、そのようなことを言うとはと人々も驚き、女人も行基がそれほどまでに言うのは何かあるのではないかと、川のふちにその子供を投げ捨てた。

すると、歩けなかったはずの子供が水の上にすっくと立ち、目を血走らせて大きく見開き、鬼のような形相をして、「口惜しや!前世でおまえに貸したものを取り立てて、食ってやろうとしたものを、あと三年もすれば、とり殺せたものを」と言いながら沈んでいった。

女人は、前世で借りたものを返さなかったのだ、因果応報の恐ろしさを語る説話であります。

河俣氏

川派(かわまた)は現在の川俣(かわまた)であり、河俣と書かれます。

「俣」も「派」も分かれていることを示していて、付替え以前の大和川の長瀬川と楠根川が合流し「河内湖」にそそぎ込み、河俣江と呼ばれる入り江になっていたことから名づけられました。

このあたりは何本にも川筋が分かれたり、入り江や中州があちこちにある水害も多い低湿地ではありましたが、逆にこういう地形は、水運の便もよく、文化を受け入れる地であり、古代はこの辺りの中心的な集落で菱などの水草が茂る水郷であったようです。

河俣の地名は古くから知られており、日本書紀には、伽破摩多曳(カワマタエ)と記され仁徳天皇が詠んだと言われている歌があります。

水たまる 依網池に ぬなは繰り 延へけく知らに
堰杙築く伽破摩多曳の 菱茎の 刺しけく知らに 吾が心し いや愚にして

じゅんさいや菱が食べ頃になっているのに気付かない愚かな私は
髪長媛に恋慕している私を父が見ているのも知りませんでした。

河俣江は、河俣氏という豪族がおさめていたそうで、綏靖天王の妻の河俣毘売、開化天皇の子孫・息長宿祢王の妻の河俣稲依毘売を出したほど朝廷とゆかりが深く、かなりの勢力を持っていたようです。

氏神は川俣神社、河内湖の漁労をおさえて富を蓄え、河俣連人麻呂のころ、奈良の大仏の建立時には、いの一番に銭1000貫をも寄進したそうです。

大江御厨

「河内湖」は、平安時代には、現在の大東市から東大阪市北部にかけての大きさがあり、まさに生駒山の西側一帯は大きな湖のようでした。

湖には鯉、鮒、鯰、はす、わたか、えび、鰻、つがになどの豊富な魚介や、蓮や菱、アケビ、イチゴ、ヤマモモなどの果物など多くの自然の恵みがありました。

それゆえに延喜五年(905年)に皇室の直轄領「御厨」に定められ、おおきな湖の御厨ということで「大江御厨(おおえのみくりや)」と呼ばれました。

その範囲や、生駒西麓の日下あたりから、流入する川を含め、淀川河口であった「渡辺津(現在の天神橋あたり)」まであったそうです。

その汀際には、その水産物で生計をたてる人々の集落があり、かれらのことを「供御人(くごにん)」と呼んでいました。

供御人

「供御人」とは、皇室直属の民であり、皇室の権威で河川の漁業権を独占し、税をおさめるかわりに決められた数の食材を貢進し、その余った魚介類を市に出して売りさばき、儲けた金を「兄部(このこうべ)」と呼ばれる統率者に上納金として納めて、諸国を自由に通行する権利を与えられていました。

かれら「大江御厨」の「供御人」たちの「兄部」は、「渡辺津」を本拠地にした「渡辺党」と、「枚岡神社」の神官であった「水走氏」でありました。

「大江御厨」の西を「渡辺党」、東を「水走氏」で二分して、その縄張をめぐって各所で抗争をくりひろげていたのです。

「水走氏」は朝廷から、「大江御厨・山本河俣執当職」の役を拝領し、御厨から朝廷に貢進する物資の調達・管理・漁業・水上交通・運輸・市場の監督官として力を振いました。

「河俣」はもちろん川俣で、「山本」は現在の八尾市・山本ではなく、このころは湖岸の山麓を指したものと考えられます。(八尾・山本は江戸時代に開拓者の山中と本山の名からとった新田の地名で、ここでいう山本はおそらく発掘遺跡から額田に比定されます。)

「大江御厨」の中心地は、現在の東大阪・御厨で政所(管理事務所)が置かれ、北から水産物、南から農産物が搬入されて「河俣」に並んだ倉から舟で、大東市の氷野まで運び、さらに淀川をさかのぼり平安京まで輸送したのです。

「大江御厨」から都へは、シーズン中一日おきに、蓮の葉、レンコン、蓮の実が運ばれ、木蓮子(いたび)や雑魚でつくった鮨、味塩魚を供進することが定められていました。

また元旦や正月7日、16日、5月5日、7月7日、9月9日、11月の新嘗会の七節会には七荷の雑鮮味物(水産物)を供進するよう定められていました。

河俣氏の末裔たる「河俣供御人」たちは、その特権を楯にしばしば他の漁師たちといさかいを起こし、また水走に近い山本の「供御人」たちとは違い、おそらく「渡辺党」ともよしみを通じて双方を天秤にかけて動いていたことだと思われます。

そして彼ら「供御人」たちは、優秀な水先案内人でもあるので、水上交通や輸送をも牛耳っていたものでしょう

消えた池

その「供御人」たちの活動も、やがて河内湖の湖面が縮んでいくのと足並みをそろえるように室町時代の始めには姿を消してゆきました。

「大江御厨」は消滅し、河俣は公家の山科家の荘園となり、その名残が稲田の山科神社です。

そして河内湖は、江戸時代の始めには、周囲三里(約12km)の「新開池(しんがいけ)」と南北二里(約8km)東西一里(約4km)の「深野池(ふこうのいけ)」という二つの大きな池となり、大和川の付け替え後は干上がり、姿を消してしまったのです。
生駒の西の大きな池は、今はまぼろしの池となったのでした。
おはなし  ひょこタンのパパ
(その40おしまい)


その41をお楽しみに!

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