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親子で楽しむ 『東大阪むかしむかし』

その35  美女堂(びんどう)家のひとびと2018/06/01

むかーしむかし、若江に美女堂というお寺があったんじゃ

美女堂(びんどう)家のひとびと

巨摩橋

東大阪市を二つに分けて南北に走る「大阪中央環状線」、上下16車線にもおよぶ日本最大の道路幅(120m)をもつ巨大な幹線道路です。

関西の物流や交通の中心であるこの道路と、布施四条線が交差するところに「巨摩橋(こまばし)」と呼ぶ大坂難読地名に必ず出てくる場所があります。

「巨摩(こま)」とは、「高麗(こま)」の意味で、はるか大昔に高句麗からの渡来人たちが開いた土地であり、「巨摩橋」のある「若江」は、ゆうに1,500年以上の歴史をもつ大阪で最も古い地名の一つであります。

その「若江」の由来は、神功皇后の時代、大旱魃があり「大般若経」を唱えて雨乞いをしたところ清水が湧き出したので、お経の「若」と水源の「江」をとり「若江」と名付けたとも、河内湖の入り江のひとつに「若江」がありその名をとったとも、またここに住んでいた氏族「若江造」からとったともいいます。

ともかく、一面葦の繁る湿地帯であった河内国の真ん中にある唯一の高台で、水路のアクセスの良さから河内の政治や経済の中心地でありました。

その「若江」の「巨摩橋」に、平安のころ大きなお寺があったそうで、山号を「美女山」、「薬師寺」または「巨摩堂」と呼ばれていました。

山号のいわれは、開祖・源賢の名「美女丸」から来ていて、秘仏の本尊・薬師如来像は美女丸の顔を写されたと伝わっています。

多田満仲

江戸のころの大坂カルタに、「ただのまんじゅう、武士のはじまり」と詠われ、平安朝の貴族たちに武士の存在を知らしめた男がおりました。

「多田満仲(ただのみつなか)」です。

「源満仲」とも呼ばれ、清和天皇の曾孫に当たり、摂津の多田荘に本拠地を置いた武士団の棟梁で、「源氏」の開祖であります。

長男「頼光」を関白・藤原道長のもとに送り朝廷に食い込み、三男「頼信」には河内に入植させ「源氏」の基盤を築かせます、のち「頼信」の五代あとには「頼朝」が出て鎌倉に幕府を開くことになります。

さて、その満仲、65歳の時に四番目の男子が生まれます、「美女丸」と名付けられたその子、誰に似たのか、きかん気の強いゴンタな子でありました。

さき恐ろしやと、寺に預け坊主にしようとするも、和歌や管弦はもとより経文を読む気すらさらさら無い様子、満仲烈火のごとく怒り、郎党の藤原仲光に美女丸を斬るよう命じます。

いかに主君の命令とて主の子どもを斬れようはずがありません、仲光、困うじて美女丸を比叡山に逃し身替りに我が子・幸寿丸の首を討って満仲に差出したのです。

この話は謡曲「仲光」として語り継がれ、そのことを知った美女丸は発奮し、阿闍梨へと上り詰めるという話になっていますが、実際は・・・

比叡山延暦寺の高僧・源信(恵新僧都)の弟子となった「美女丸」は名を改め「源賢」と名乗り、やがて法眼の位に上りつめます。

そして「八尾別当」(若江・八尾における寺社の総元締め)の地位を得て、安和(968~970)のころ若江に「美女山巨摩堂」を建立したようです。

ところで当時の僧は表向き妻帯できません、しかしこの「源賢」あからさまに子供がおり、「八尾別当」の地位を「源賢」の子孫に世襲させていったのです。

八尾別当

「源賢」の子孫たちは、若江・八尾を根拠地とした豪族として武力をたくわえて行きました。

鎌倉時代も終わりのころ、河内では「楠木正成」が台頭してきました。

当時の「八尾別当・顕幸」は、正成の家臣となり、吉野の南朝のために奮戦します。

しかし武運拙く南朝は衰え、足利方が若江城を築城して河内を制圧し始めます。

八尾別当の勢力は衰え、ついに足利方の軍門に下ったようです。

足利方の監視のもと、若江村の西側に押し込まれ、土地の開墾を余儀なくされたようです。

現在、八戸ノ里公園となっているその土地は、土地も低く、一旦豪雨にもなると洪水の被害を受けやすく、とうとう一族のシンボルたる「巨摩堂」も流されてしまったようです。

昭和39年の発掘調査で発見されるまで、この「巨摩堂」は楠根川のほとりに埋もれていたのです。

「八尾別当・顕幸」の子孫たちは、その土地で美女山のお堂にちなんで「美女堂(びんどう)」氏と名乗り、武士をやめ農家として歩み出しました。

美女堂家

豊臣秀吉が天下を統一すると、若江城は取り壊されました。

「若江」は河内の中心地ではなくなり、どこにでもある農村の集落にもどってゆきました。

その若江で「美女堂」氏は、農家ではありながらも、いにしえの「源氏」「八尾別当」の血を継ぐ土地の名家として栄え、四つの分家に分かれました。

その四家とは、吉左衛門、孫六、理兵衛、善右衛門の四戸であり、若江村に「美女堂川」や「美女堂田」の地名を残すなど、「美女堂」氏が栄えた様子を物語っています。

江戸時代のなかば、孫六家は故合って遠州掛川の大名・太田家に仕官がかない、若江を出てゆきました。

石碑

幕末も近い天保のころ、遠州掛川・太田資次は大阪城代に任じられ、家臣の孫六5代目の子孫・「美女堂勝喜」も主君に従い大坂に赴任してきました。

勝喜は、先祖を偲び若江村へと足を運びました。

が、すでに理兵衛家、善右衛門家はすでに絶えて無く、ただひとつ吉左衛門家のみが残されていました。

当主は70歳を越えていましたがまだ元気であり、その吉左衛門に話を聞くと、

「あの、老松のあたりが孫六の屋敷の跡でございます、あの川を美女堂川、あの田を美女堂田と申し、村人は今も昔ながらの呼び名で呼んでおります。

 されど月日は移ろいます、のちの世まで人々が美女堂家の名を語り伝えるとどうしていえるでしょうか。」と話し、よき昔を思い出しては涙しました。

勝喜は、世の無常を感じ、屋敷跡の老松の根元に美女堂氏の由来を刻んだ石碑を建てました。

この美女堂氏の石碑、あちこち転々としていたようですが、現在、若江公民分館の前に据えられています。
 
 
おはなし  ひょこタンのパパ
(その35おしまい)


その36をお楽しみに!

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